2020年12月8日(火)

晴れ。比較的あたたかい一日だった。

昼間、郵便で『Long, Long, Long, Revolution 1』という文章を寄稿した、バストリオの10周年を記念したタブロイド判の冊子が届く。読み応えがあり、写真が綺麗で良かった。

ところで、『このCDを聴け! 買って絶対損はない洋楽CD638枚』というムックが97年に刊行され、当時、父親がなぜか会社帰りにそれを買ってきてくれた。なぜか、というのは、そもそも父親は終業後に寄り道などせず、すぐに帰宅する人であり、だから家族への土産物などそれまでなかったからだ。ただ、その理由に心当たりがないわけではなく、——というのも、その先週末、つまり『サザエさん』が放送されていた時だが(父親は、『サザエさん』を見ると憂鬱になる、いまでは俗に「サザエさん症候群」と呼ばれるあれを、毎週その身体で雄弁に語っていた)、波平が寿司折を持って帰宅しているのを見たおれと妹と母は、うらやましい、と冗談半分に父親に訴えたのだった。

それが功を奏したのかは不明だが、そういったわけでそのムックを手に入れたおれは、いままで聴きたい音楽がないという状態になったことがない。なにしろ、638枚もの洋楽を聴け! と言われているのだから。近所のレンタルショップで借りてきたものをカセットテープにダビング、やがてそれがMDに、時には購入し、とはいえ基本的には新譜を聴くわけで、サブスクが整ったいまでも未聴のものが多くある。

ディスクガイドの素晴らしいところは、掲載されているものが大体未知のものだからだ。知らないジャケット、アーティスト、アルバムタイトル。638枚、ほとんど知らなかった。やたらと登場する「V.A.」とはどんなすごいバンドなんだと思っていたくらいだ。

今日、届いた『インディラップ・アーカイヴ もうひとつのヒップホップ史:1991 – 2020』もまた、知らないジャケット、アーティスト、アルバムタイトルがぎっしりと詰まっている。ありがたいことだ。
そもそも英語の聞き取りが不得手なおれにとって、ヒップホップは好んで聴くジャンルではないのだが、さらに枠を「インディラップ」に絞り込まれては、ほんとうになにもしらない。全然知らないジャケット、アーティスト、アルバムタイトルの羅列は、それだけで素晴らしい価値だ。同様の理由で最高な書籍に中原昌也『12枚のアルバム』があるが、何度読み返そうとも、そこに出てくる多くの名詞は正体不明のままである。でも、いるし、あるんだよ、たぶん、それ。興奮するし、嬉しいよね。

夜、テレビで『姉ちゃんの恋人』第7話。

2020年12月7日(月)

晴れ。昼、『泣くな、はらちゃん』のBlu-ray BOXの特典映像を見る。そういえば数年前、なんとはなしに転居を考えていた時に三浦半島の物件を幾つか巡ったのは、『泣くな、はらちゃん』の影響だったと思い起こす。ただ、ここに越してきてはほんとうに誰とも会わなくなるだろうと思い踏みとどまったのだった。まだ、当時の飼い猫だったもきちが元気な頃で、とはいえ近くに動物病院が無かったことも気がかりだった。

ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン』を読んでいるうちに、しばらく前に読んだスラヴォイ・ジジェク『真昼の盗人のように』のことを思い出し、第三章「アイデンティティから普遍性へ」を読み返す。
「私たちが良ければ、それで良い」が、「私たちが良ければ、それで良い」を補強し続ける仕組みの中で、「私たち」というクラスターはより細分化され続けるのだから、階級の問題は複雑となるわけではなくむしろ単純に、しかし無秩序に点在することになる。そしてその数の膨大こそが問題で、コロナ禍のいま世界が直面している医療の危機は、まるでその脅威の具象化だ。

2020年12月6日(日)

晴れ。一日かけてBlu-rayで『泣くな、はらちゃん』を最終話まで見る。やはり、ファンタジーでもメタフィクションでもなく、和製マジックリアリズムの比類なき傑作。テレビ放送後、7年半距離を取ってきたのは、これが劇薬だからだ。

2020年12月5日(土)

4日(金)、晴れ。日中に済ませたい用事が溜まっていたので、眠らずに午前から雑務。洗濯機を二度廻す。洗濯物を二度干す。夕暮れ、洗濯物を一度に取り込む。少し寝て、夜目覚める。

5日(土)、雨。夜中になにか考え事をしていた記憶があるが、内容が全く思い出せない。明け方、そのままリビングで寝てしまった。

夜、テレビで「IPPONグランプリ」、その後、Blu-rayで『泣くな、はらちゃん』第一話を見る。テレビ放送以来。深夜、NETFLIXで『呪術廻戦』#9、#10。

環七の工事は、夜中に本腰を入れる。
一年中、工事と交通の音を聞いているので、時折、静寂に出くわすと自分の生命としての音の大きさに緊張する。音によって感じる大気中の空気の存在はたしかにあって、自分の音よりも、向こうから違う向こうへと移動する音を聞いていたほうが世界があって良い。
で、いつの間にか朝が来て静か。世界が元の大きさに縮む。

2020年12月3日(木)

夕方に起きる。天候不明。寒い。

ここに書くには躊躇われる、耽美的で、悪趣味な夢を見た。仔細をここには書けないのでいずれ忘れてしまうだろうと危惧し手帳に内容を書き記すが、なんのためにそんなにその夢を記憶しておきたいのだろうか。

先月の19日の日記に、

加速しかければ踏みとどまり、じりじりとなにもない場所へと進む筆致。次はこのやり方で、もう少し長くやらなければならないようだ。必然的に途切れるように、それも、予想していない形で終わるための方法——など無い、という矛盾のまま、それを実行する術は、たぶんもはや、美にしかない。

などと記したが、それはつまり「美=絶対的なもの」と想定してのことだったか。たぶん、その想定の不可能性をイメージして述べたのではなかったと思う。だとすれば、どうやら、自分のなかのなにかが、頼れる指標だと信じているらしい。夢みたいな話だ。

深夜、『ディスタンクシオン』第Ⅰ部を読み終える。