この二日間は体調が悪くおとなしくしていた。おれは体調が良くてもおとなしいが、それはともかく、仕方がないのでおとなしくしている、というのは存外難しいことなのだ。
今年は例年よりも、仕方ない、と口にする人が多かったのではないだろうか。テレビはコロナのことばかりだから、街頭でインタビューを受ける人は、よく、仕方ない、と言っていた。経済を回さないと、などという、教育され切ったがゆえの言葉を耳にして驚くこともたびたびあった。
美術家の高嶺格さんが、年始に催される『文化庁メディア芸術祭 京都展「科学者の見つけた詩-世界を見つめる目-」』という展示会に、おれが9年近く前に参加した『ジャパン・シンドローム~関西編』を出品しているという案内をLINEでくれた。
興味深いのは副題である「科学者の見つけた詩-世界を見つめる目-」で、高嶺さんは『ジャパン・シンドローム~関西編』と共に展示されている湯川秀樹と朝永振一郎の原子力に関する言葉を写真で送ってくれた。研ぎ澄まされた言葉だった。
いま読んでいる小林秀雄と岡潔の雑談を編んだ『人間の建設』において、数学者の岡は詩人をこう語っている。
岡 <……>つまり一時間なら一時間、その状態の中で話をすると、その情緒がおのずから形に現れる。情緒を形に現すという働きが大自然にはあるらしい。文化はその表れである。数学もその一つにつながっているのです。その同じやり方で文章を書いておるのです。そうすると情緒が自然に形に現れる。つまり形に現れるもとのものを情緒と読んでいるわけです。
小林秀雄・岡潔『人間の建設』、新潮社、2010年、71ページ – 72ページ
そういうことを経験で知ったのですが、いったん形に書きますと、もうそのことへの情緒はなくなっている。形だけが残ります。そういう情緒が全くなかったら、こういうところでお話しようという熱意も起らないでしょう。それを情熱と読んでおります。<……>ある情緒が起るについて、それはこういうものだという。それを直感といっておるのです。そして直感と情熱があればやるし、同感すれば読むし、そういうものがなければ、見向きもしない。そういう人を私は詩人といい、それ以外の人を俗世界の人ともいっておるのです。
この後の雑談にも引用したい言葉がいくつかあり、やがて小林が「確信」という言葉を口にする。それを受け、
岡 <……>確信のないことを書くということは数学者にはできないだろうと思いますね。確信しない間は複雑で書けない。
前掲『人間の建設』、111ページ
つまり、直感を確信へとつなぐために数学があり、岡は最終的に書かれる「確信」と通ずるものを「詩」に感じているようだった。
こうなってやっと、仕方がない、と言える状態が訪れる。
なので、とにかく、仕方がないのでおとなしくしている、というのは存外難しいことなのです。
音楽は引き続き三村京子さんの『岸辺にて』。