またも長く日記が空いたが、つまらない気分だったというよりも、どちらかといえば体調不良が原因だった。
それなりになにかはしていて、とくに吉川浩満『理不尽な進化』を読み終え、その流れでリチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』に取り掛かったことは刺激的だった。
コロナ禍以降、自分が世界への理解を怠っていることに思い当たり手に取ったピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン』と、進化論に関するふたつの著作だが、これらから受けるある種のどうしようもなさは、確実に世界へのまた別の視点を与えてくれたと感じつつ、どうしてもその視点からフィクションを見ることへの偏重は止まらず、では、俺はデトックスと愉楽のためにこうした学問の端を舐めて甘みを感じているだけなのか、という疑念が頭をもたげる。
たとえば幾つかアニメーション作品のタイトルを挙げよう。『シン・エヴァンゲリオン劇場版』『魔法少女まどか マギカ』『呪術廻戦』『進撃の巨人』。どれも既存の神話を敷き、ユニバーサル・ダーウィニズムを軸に回転、やがてはある個人の決断に大きな結末が委ねられる。
はっきりとしたパターンが見て取れるそれらの作品に性的印象は皆無で、主に若者である登場人物の生物的欲望の描写は食欲(捕食を含む)に集約されることが多い。そうしてそこに生じる大きな空白は、物語の回転速度の高さと生命の危機——より根源的問題——に糊塗され続け、特有の浮遊感をそれぞれの虚構世界に与えることになる。
作り手によって明確に意図されたそれらのことをどう捉えるべきなのだろうか、という迷いは、先に挙げた「世界への理解の怠り」と「学問の端を舐めて甘みを感じる遊戯」に感じるのと同等の疑念を備えている気がして落ち着かない。
とはいえ、そうしたざわめきは各々の作品への批判には繋がらず、ただ、やはり最後は俺によって俺の愉楽に貢献してしまうのだ。
そんなわけで今日もまた世界は遠く、あるいは自分であり、とにかくその古臭さにげんなりする。
これは昨日、Twitterに投稿した文章だが、
先を目指す限り不気味の谷のような立地の「何だかいまいちな谷」を越えるほかなく、そのためには、その谷が「何だかいまいちな谷」だと知りながらも立ち入り、だけどその先のことは知らずに進まなければならない。そこは名前の印象よりも遥かに恐ろしい谷で、孤独の中、唯一の他者である自分は怪しい。
世界が遠く、あるいは自分であるそこは谷。一定の高みを眺めた後、安住の地では無いとわかって侵入した場所なのだから、いつまでも彷徨っていてはいけない。穴にはまったわけじゃない。侵入口と反対の方向へと進め。
音楽はMdou Moctar『Afrique Victime』『Ilana (The Creator)』、Iceage『Seek Shelter』などなど。長らく聴くのが辛かったエレキギターだが、その感情がまた聴こえてきた。