2021年6月23日(水)

雑誌「スペクテイター 48号 特集:パソコンとヒッピー」を読む。
パソコンの文化史をヒッピーを軸に捉えた特集で、テキストの大量から、漫画にしなくて良かっただろう、とは思うものの労作だった。
2021年にヒッピーを軸にパソコンを語るということは、つまり情緒の科学への敗北を意味しているが、いちおう、最後にはアーミッシュという宗教集団を召喚することによって問題提起をしているところが切ない。

コロナウイルス、コロナワクチン、東京五輪、政治、経済といった混乱材料がインターネットを縦断し、個々人の情緒でべたついた言葉の群れが巨大な蜘蛛の巣となっている様を、しかし観察するものはない。つまりは誰ひとりとして現状を把握することは不可能であり、情緒はただ科学に促され徘徊するのみということだ。

昨年12月31日の日記に書いたことを引用する。

2020年、コロナの年、ぬるい個人主義とそのパノプティコン効果でこの国の人々はみなよくわからないままマスクを着用し外出を控え、結果、被害は欧米と比して小さい。だが、それは簡単に裏返るだろう。いまのここには重しがない。予兆は十二分。大晦日に言いたくないことだが、来年が怖い。

まだ東京五輪を控えた上半期だというのに、朴訥とした予見は十二分に当たってしまった。みなが予見していたことだ。知っていたこととも言えるだろう。

昨年12月25日の日記で引用した文章を再度引用する。

 <……>矛盾がないということを説得するためには、感情が納得してくれなければだめなんで、知性が説得しても無力なんです。ところがいまの数学でできることは知性を説得することだけなんです。<……>人というものはまったくわからぬ存在だと思いますが、ともかく知性や意志は、感情を説得する力がない。ところが、人間というものは感情が納得しなければ、ほんとうには納得しないという存在らしいのです。
小林 近頃の数学はそこまできたのですか。
 ええ。ここでほんとうに腕を組んで、数学とは何か、そしていかにあるべきか、つまり数学の意義、あるいは数学を研究することの意味について、もう一度考えなおさなければならぬわけです。

小林秀雄・岡潔『人間の建設』、新潮社、2010年、40ページ

とはいえ、感情は自家中毒を起こし、そこから生まれる情緒が科学によって徘徊させられるいま、いったい何ができるというのだろう。圧倒的な敗北感がここにある。
あそこの誰かは仮想敵と戦い敗北から目をそらしているうちに、いつのまにか焼け野原に立っている。呆然と立ち尽くし、少しのあいだ無邪気にそこを駆けまわってみれば、あとは野垂れ死ぬのを待つだけだ。結局、雨が降る。

以下は、昨日のツイート。

自分のMacでは、Apple Musicがなぜか英語表記になってしまうトラブルがずっと続いていて、まあいいや…と使っていたが、井上陽水の『結局 雨が降る』が、『kekkyoku ame ga agaru』になっていたのは流石に看過できないし、理由がよくわからない。結局、降るんだよ! 雨。

2021年6月18日(金)

前回の日記との狭間の記録として、池辺葵『ブランチライン』2巻、うめざわしゅん『ダーウィン事変』1巻、2巻、『売野機子短篇劇場』などを読む。
テレビドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』『あのときキスしておけば』が最終回を迎える。次のクールは目ぼしいドラマが見当たらないのが寂しい。
衝動的に、10代の頃から買い替えながら使っていた「メディカル枕」に見切りを付け、マニフレックスの「フラットピッコロ」という枕に替えたところ首の調子が良い。

これはただの愚痴だが、今日Twitterにこんなことを書いた。

たとえばある「言葉」が鼻につきはじめると(仕方ない、たくさん目にしちゃう時代だから)、その「言葉」を使う目的や意図を差し置いて、「言葉」そのものに嫌悪感を抱く、ということを人はやってしまいがちだと思う。うまく分けられない。脳の仕組みなのか。いろんなくだらない問題がそれにて起こる。

わかりきったことであらためて書くことでもないのだけれども、それにしてもどうにかならないものか、とついツイート。それとこれとは別のことだという指摘はその都度理解された雰囲気だけを残し永遠に繰り返される。先人たちもまた、老いるにつれ自然と諦めていったのだろう。

まあ、そんなことはどうだっていい。でも、そんなどうだっていいことが雪崩のようで息も絶え絶え。相も変わらず合駒の日々。

2021年6月4日(金)

5月25日(火)、相変わらず肩こりがひどい。ひさしぶりに「せんねん灸」を据えようとそれを肩に置いたのだが、コロナ禍以降、理髪していない襟足が燃えてしまった。
その夜、友人たちと「リモート飲み」をしようと約束していたのだったが、当日、約束の21時からテレビで『大豆田とわ子と三人の元夫』を観なくてはいけないことを思い出し、日中にその断りを入れ、ドラマが終わった22時に急いで合流。参加者のそれぞれの上半身は画面の区切られた箇所に表示されていたが、そこに映る自分の髪は長く、無精髭で、世捨て人じみていた。実際、友人たちからもそういうようなことを言いたいのだろう曖昧な言葉が聞かれた。
翌日、三年ほど通っている駅前の理髪店に。800円から850円に値上げしていた。先客がふたり施術中で、さらにふたり待っていたが、ふたりの理容師たちの早業によりほとんど待たずに済んだ。安いのはもちろん、無駄が無くとにかく施術が速いのが素晴らしい。初めに一言ふたこと理髪の内容について話す以外はなにも話さない。50円の値上げもこの時世仕方のないことだ。今回、おそらく一年半ほど髪を切っていなかったが、理髪店が苦手なおれでもコロナ禍でなければ、その間に二三度は出向いていたはずである。
襟足を可能な限り短くしてくれとだけ頼む。あとは特に期待も信頼もしていない理容師にすべてを託したが、襟足以外はほどほどに長いままにされ、それなりに小綺麗に落ち着いたので嬉しかった。
すべてを終え、俺がメガネとマスクを装着すると、並行し後片付けをしていた理容師がとつぜん「見てください」と言う。「ほら、こんなに切りましたよ」と切られた一年半ぶんの髪を箒で集めたものがそこにあった。「わあ」と応えたのはそれが求められた反応だと思ったからで、とくに感嘆はなく、なぜそれを見せてくるのかがわからなかった。そもそも、それが多いのか少ないのかわからない。いや、おそらく多かったのだろう。なにしろそこは、短髪の年寄りばかりが来る店である。だからって、だからなんだ。「だからなんだ」とは言わず、850円を支払い「どうも」と言って店を出た。自販機でコカコーラを買って帰った。
——というような日記を書こうと思ってから十日も経ってしまった。それが今日だ。雨風の強い日だった。
リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』はまだ半分ほどまでしか読んでおらず、先日本屋で見つけ購入した朝日文庫の『岡潔対談集』などに寄り道していた。今日、ふたたび『利己的な遺伝子』に戻ったが、その影響で七年前に読んだシーナ・アイエンガー『選択の科学』を再読したくなり、だから『利己的な遺伝子』は閉じたが、『選択の科学』の再読は後にして日記を書くことにした。日記は間も無く書き終える予定なので、そのあとは寝ようと思う。