2021年7月26日(月)

颱風が近づいているらしい。

24日(土)午前、持病のパニック障害のためにチャリで通院。もらった処方箋を持って薬局に行き待っていると、かわいらしいお声をしたいつもの薬剤師さんが困り顔でちょっとご相談が、と話しかけてくる。聞くと、処方薬のうちのひとつをジェネリック医薬品に代えてくれないかとのことだった。
パニック障害に関係する薬は二種類処方されていて、もう片方はすでにジェネリック医薬品にしているのだが、ひとつを先発薬のままにしているのには理由があった。
冒頭で持病と記載したとおり、もう人生の半分近くをこの病と付き合っているが、先発薬のままにしているのはいわゆる頓服薬で、外出時に服用することが多い。20代の頃などは、なんとなく友人の前などで薬を呑むと気を使わせるように思い、頭痛持ちでもあったので市販の頭痛薬や、朝に一度呑むだけでよいもうひとつの処方薬などを一緒に入れた小袋から頓服薬を手さぐりで探し、飲み物のついでにさっと服用していたのだが、その際、役立ったのは、件の先発薬だけが他と違い楕円形であり、指先で判別できたことである。ところが、ジェネリック医薬品は正円なのだ。聞けば値段も大差なく、では、と数年前に先発薬のままにしてもらった際は特になにも言われなかったのだが、この日のかわいらしいお声のやさしい薬剤師さんは小声で、「国からの圧力がすごくて……」とおっしゃった。どうやら、とにかくジェネリックにしろと言われているらしい。おれが先発薬を使っていた理由は上記の通りなのだが、もう持病のひとつやふたつあってもおかしくない歳だし、大体、ほとんど外出しないし、幸いその頓服薬を呑む回数も減っているし、なによりかわいらしいお声のやさしい薬剤師さんが困ってらっしゃるので、では、とジェネリックに代えることを承諾する。
チャリで帰宅し、「国からの圧力がすごくて……、だと? なにか裏があるに違いない……」、などと思いながらネットで調べると、とにかく医療費が嵩んできついからそうしているとのことだった。まあ、そうか。そうだよな。わかるわかる。

ちなみにおれは普段、チャリとは言わず自転車と呼称している。
これは、なんとなくチャリって言いたいのと、かわいらしいお声のやさしい薬剤師さん、と書きたいがために書かれた日記だ。
昔はよくこういうことをしていたが、しばらくしてから決まってあんなくだらない日記を書くんじゃなかったと苦しめられるのが辛くやめた行為だった。だけど、なんとなくやめたのをさっきやめた。
かわいらしいお声のやさしい薬剤師さんは、毎朝チャリで出勤しているのだろうか。

音楽は、期待していたNicolas JaarとDavid HarringtonによるDARKSIDEの新譜『Spiral』と、Clairoの新譜『Sling』がいまひとつだったのでMitskiを聴いている。『Puberty 2』、『Be the Cowboy』。この2枚をいつも一緒に聴いていたのは飼い猫だったもきちだから、彼のことを思い出す。
ちなみにおれの勝手な推測では、もきちが特に好きだった曲はMitski『Your Best American Girl』と七尾旅人『DAVID BOWIE ON THE MOON』の二曲。どう? あってる?

2021年7月20日(火)

さて、この日記をいつ誰が読むのかはわからず、もしかすればその時にはすっかり忘れ去られている話題かもしれないが、Corneliusこと小山田圭吾が、過去に行った問題とそれに関する雑誌のインタビュー記事に起因した騒ぎで東京五輪の開会式の作曲担当を辞任した。それにまつわる話題がここ数日、大変にぎやかだったし、いまもなおそうだ。
このことについておれが想起したのは、永山則夫と、死刑(私刑に非ず)についてだった。

件の、過去に行った問題とそれに関する雑誌のインタビュー記事については、おれはずいぶん前に知っていた。学生だった頃には知っていたと思うから、20年近く以前に耳にしていたことになる。
当時、じぶんがそれを知り何を思ったかははっきりと思い出せないが、それほど高い関心を持たなかったように思う。嫌悪感と冷めた気持ちが混ざったような感情でそのことに接していたように思う。いまのようにSNSなどで知ったわけではなく、ひとりひっそりと昏い何かに触れたせいでそうなったのかもしれない。だからだろうか、何にしろ、発表された/される作品、つまり彼の音楽を聴いてなにかを思うほかないと考えていた。

永山則夫については、知らないひともいるだろうから調べてもらいたいが、1968年に拳銃で連続殺人を行い、後に死刑となった犯罪者である。
なぜ彼が想起されたのかだが、彼は獄中で小説を執筆しそれが評価を受け、1990年、日本文藝家協会への入会を申請する運びとなる。ところがこれを協会が拒んだことがきっかけで、協会を脱退する作家が複数あらわれる騒動となった。要するに、殺人犯は協会が守るべき文藝家であるか否かが争点となったのだ。
この複雑な問題をさらに複雑にしてしまうのが死刑制度である。死刑囚は自死できない。彼らにとっては、他者から殺されることがその刑罰であるからだ。永山則夫は協会への入会を希望した時点では、当然まだその刑罰を受けていなかった。罪はまだ罰されておらず、彼は法のもと許されてはいなかった。
果たして、そのことと彼の作品にいかなる因果を想うか——、30年前、それは世に問われていたわけである。

このことと死刑制度の是非について仔細に述べようとするとあまりに長くなるので、このあたりで次に進むが、では、Corneliusこと小山田圭吾が過去に行った行動はいつ許されるのか。
まず、彼が過去に行った行動は、現在の彼に犯罪者の烙印を押すことはできない。つまり、社会的にそもそも罪を問われておらず、ゆえに処される刑罰もない。彼が過去に、あるいはいまできるのは、過去の自身の過ちを認め反省や後悔をすることだけだ。
そしてその内容は、他者が評価できるものではない。彼の過去の行動に嫌悪感を抱き憎むのは自由だが、彼を許せるものは誰もいないのだ。
このことが、今回のことがおれに死刑という刑罰を想起させる理由となった。

彼はすでに、憎悪だけを一方的に受け、許される立場にはない。これは死刑と似ている。死刑囚は、生を奪われ、この世から消えてしまうことでしか刑罰を受けることができず、最期まで許される立場にない。法的に、許されるということが許されない。ゆえに殺される。
いま、小山田圭吾が過去に行った行動について行われていることは、この、許されるということが許されない、という性質に酷似しているように感じられる。

法に問われていない罪は己によって罰するほかない。そのことは多くに人の知るところだと思う。最期まで、自身によって過去の罪を許せず、罰し切れない、許されない人生を送る人も少なからずいるだろう。それは、やはり他者が評価できるものではない罰だ。憎むのは自由だが、断罪はわれわれの範疇にはない。

名もなきひとびとの声が、許されるということが許されない世の中を作る時代になってしまった。それは死刑を除くすべての刑罰よりも残酷であるにも関わらず、大きな力になってしまった。そして、その恐ろしい事実が、2021年に開催される東京五輪というくだらない催しによって歴史に刻まれる。私たちの手で。くだらない。本当にくだらない。小山田圭吾が今後、どんな音楽を作るのか、あるいは作らないのか、彼が過去に行った行動を彼が「本当に」反省しているか否か、それらは我々に問えることではない。彼が過去に行った問題とそれに関する雑誌のインタビュー記事がただただ不快だった——そうだったしても、それとこれとは話が別だ。

2021年に開催される東京五輪という素晴らしい催しに、彼のような過去を持つものの音楽はふさわしくない——、そんな素朴な意見ならば理解できる。ただ、この場合、そもそも彼の過去を断じる必要はなく、やはりいまの世の声は、ただただ力なく闇に吸い込まれているだけと言うほかない。

軟弱で醜悪な感情が徒党を組んで歩き出す。でも三歩歩けば忘れるから、もうこの日記を読んでもなんのことかわからないだろう——、冷めた想いで眺めているのならば、おれもまた徒党のひとりと看做すべきか、だとしたら——。そんなふうにいま、ほんとうは触れたくもない話題で日記を書いている。書いていた。今ここから、未来の人へ。

2021年7月19日(月)

前回の日記で「今夜はコインランドリーの乾燥機に頼ろうか」と書いていたが、結局その数日後、雨の中、山盛りの衣類を抱え、最近近くにできたコインランドリーに。

気付けば梅雨が明け、それで、夏っぽさを感じるのが精一杯という感じの日常。なんとなく本棚から『日常と不在を見つめて ドキュメンタリー映画作家 佐藤真の哲学』を手に取り、繰り返し読む。それから、未読の『日常という名の鏡』を発注し、届くまでの間に筒井康隆『活劇映画と家族』を読む。

16日(金)に、Twitterにこんなことを書いた。

君は、自分がどうしてそんなに傷ついてしまったのかがわからない。ところが、その理由のすべてを描いている芸術がこの世にはすでにある。君はそう言われ、なぜそんなことがわかるのかと訝るかもしれない。でも、それがただの嘘だとは思わない。では、それは嘘ではなく何なのか。君は考え始める。

考え始めた時、束の間の自由がはじめて訪れる。そうやって呼吸を繰り返し、それが日常になる。酸欠あるいは窒息の日々は、日常というよりもただ流れゆく時間だ。流れにふらつき立脚できない声が用もないのに窓を叩いている。

夏っぽさを感じるのが精一杯だけど、それがなにか知っていたから、だからこれが夏っぽさ。

音楽はClairoの新譜『Sling』。

2021年7月5日(月)

4日、日曜日。雨。ただただ義務感に促され、東京都議会議員選挙の投票に。投票のためだけに家を出るのも億劫だったためカメラを片手に出掛けたが、一度もシャッターを切らずに帰宅する。

ところで、最近は蛙亭にはまっている。しばらく前にテレビで「タイムマシン」というコントを偶然目にし、少し前に「電車」を見たことでいよいよ興味が高まり、いまではPodcast番組「蛙亭のオールナイトニッポンi」、YouTubeチャンネル「蛙亭のケロケロッケンロール」、stand.fm「芸人Boom!Boom! 蛙亭の語リング」のこれまでのものをすべて視聴してしまい、毎週の更新を心待ちにしている日々である。

いままで芸人にはまる、ということがない人生を送ってきたので、ついなぜはまったのかを考えるのだけれども、そうすると10代の頃の記憶を遡ることになり、生まれである大阪府寝屋川市の当時の雰囲気を想起し、それでまあ……、そこからのあれこれは割愛するが、簡単に言えば「笑い」という文化に対する愛憎入り混じった感情があり、つまりは断罪したい思いと共犯である後ろめたさの板挟みに遭うのだった。
あれこれを省略しながら続けるのが申し訳ないが、この問題は、よく「人を傷つけない笑い」と評されるぺこぱによっては全く解決されない複雑な問題で、ところが蛙亭はその問題を解決するわけではなく、(なぜか)自然と回避しているように感じられるのだ。
まあ、とはいえその不思議も「はまっている」おれにとってはひとつの魔法でしかないのかもしれず、だから謎は謎のままにしておきたいし、そうするべきだろう。

さて、洗濯物が山積みである。今夜はコインランドリーの乾燥機に頼ろうか。雨。夜が短いなあ。暦からして当然だけど、それにしても夜が短いよなあ……。

2021年7月3日(土)

今週初め、デザインの仕事のためにいろいろな絵画を調べていると、ある古い絵本の挿絵に惹かれた。Kate Greenawayというイギリスの絵本作家が「ハーメルンの笛吹き男」の絵本のために描いたものだった。
その童話の名を耳にしたことはあったが内容はなにも知らなかったため調べると、どうやら奥深いものがそこにはあるようだったため、翌日、阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界』という本を購入し読む。とてもおもしろい本で、ハーメルンの笛吹き男とは誰か——という問いを通して「伝説」の成り立ちについて考察しており、では、現代におけるハーメルンの笛吹き男、あるいは行方不明となった130人の子供とは何か/誰か、とつい考えさせられる。ところが、

知識人がいろいろ努力を重ねて民衆伝説をとらえようとする場合、そこにはどうしてもその知識人がおかれた社会的地位が影を投げる。歴史的分析を史実の探索という方向で精緻に行えば行うほど、伝説はその固有の生命を失う結果になる。伝説を民衆精神の発露として讃えれば政治的に利用されてしまい、課題意識や使命感に燃えて伝説研究を行なえば民衆教化の道具となり、はてはピエロとなる。民衆伝説の研究にははじめからこのような難問がつきまとっているのである。

阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界』、筑摩書房、1988年、298ページ – 299ページ

とあるように、伝説における「固有の生命」とはまことに扱いが難しい。「生命」なのだから、化石にしたり、冷凍保存したり、あるいは牢に閉じ込めてはならず、ひいては干渉を最低限にしたいものの、だからといって、その生命をただ野垂れ死させては元も子もない。

本来、すべてのものとの向き合い方は、そうした難問であるはずだ。ただ、それを実践することは不可能であり、だから対象を絞る必要がある。つまり知性が必要なのだけれども、現代において知性とはただの厄介ごとなのだろうか。ほとんど忌み嫌われているようにすら感じられるそれは、いったい何の/誰のスケープゴートとなったのか。