2021年7月3日(土)

今週初め、デザインの仕事のためにいろいろな絵画を調べていると、ある古い絵本の挿絵に惹かれた。Kate Greenawayというイギリスの絵本作家が「ハーメルンの笛吹き男」の絵本のために描いたものだった。
その童話の名を耳にしたことはあったが内容はなにも知らなかったため調べると、どうやら奥深いものがそこにはあるようだったため、翌日、阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界』という本を購入し読む。とてもおもしろい本で、ハーメルンの笛吹き男とは誰か——という問いを通して「伝説」の成り立ちについて考察しており、では、現代におけるハーメルンの笛吹き男、あるいは行方不明となった130人の子供とは何か/誰か、とつい考えさせられる。ところが、

知識人がいろいろ努力を重ねて民衆伝説をとらえようとする場合、そこにはどうしてもその知識人がおかれた社会的地位が影を投げる。歴史的分析を史実の探索という方向で精緻に行えば行うほど、伝説はその固有の生命を失う結果になる。伝説を民衆精神の発露として讃えれば政治的に利用されてしまい、課題意識や使命感に燃えて伝説研究を行なえば民衆教化の道具となり、はてはピエロとなる。民衆伝説の研究にははじめからこのような難問がつきまとっているのである。

阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界』、筑摩書房、1988年、298ページ – 299ページ

とあるように、伝説における「固有の生命」とはまことに扱いが難しい。「生命」なのだから、化石にしたり、冷凍保存したり、あるいは牢に閉じ込めてはならず、ひいては干渉を最低限にしたいものの、だからといって、その生命をただ野垂れ死させては元も子もない。

本来、すべてのものとの向き合い方は、そうした難問であるはずだ。ただ、それを実践することは不可能であり、だから対象を絞る必要がある。つまり知性が必要なのだけれども、現代において知性とはただの厄介ごとなのだろうか。ほとんど忌み嫌われているようにすら感じられるそれは、いったい何の/誰のスケープゴートとなったのか。