前回の日記で「今夜はコインランドリーの乾燥機に頼ろうか」と書いていたが、結局その数日後、雨の中、山盛りの衣類を抱え、最近近くにできたコインランドリーに。
気付けば梅雨が明け、それで、夏っぽさを感じるのが精一杯という感じの日常。なんとなく本棚から『日常と不在を見つめて ドキュメンタリー映画作家 佐藤真の哲学』を手に取り、繰り返し読む。それから、未読の『日常という名の鏡』を発注し、届くまでの間に筒井康隆『活劇映画と家族』を読む。
16日(金)に、Twitterにこんなことを書いた。
君は、自分がどうしてそんなに傷ついてしまったのかがわからない。ところが、その理由のすべてを描いている芸術がこの世にはすでにある。君はそう言われ、なぜそんなことがわかるのかと訝るかもしれない。でも、それがただの嘘だとは思わない。では、それは嘘ではなく何なのか。君は考え始める。
考え始めた時、束の間の自由がはじめて訪れる。そうやって呼吸を繰り返し、それが日常になる。酸欠あるいは窒息の日々は、日常というよりもただ流れゆく時間だ。流れにふらつき立脚できない声が用もないのに窓を叩いている。
夏っぽさを感じるのが精一杯だけど、それがなにか知っていたから、だからこれが夏っぽさ。
音楽はClairoの新譜『Sling』。