2021年7月20日(火)

さて、この日記をいつ誰が読むのかはわからず、もしかすればその時にはすっかり忘れ去られている話題かもしれないが、Corneliusこと小山田圭吾が、過去に行った問題とそれに関する雑誌のインタビュー記事に起因した騒ぎで東京五輪の開会式の作曲担当を辞任した。それにまつわる話題がここ数日、大変にぎやかだったし、いまもなおそうだ。
このことについておれが想起したのは、永山則夫と、死刑(私刑に非ず)についてだった。

件の、過去に行った問題とそれに関する雑誌のインタビュー記事については、おれはずいぶん前に知っていた。学生だった頃には知っていたと思うから、20年近く以前に耳にしていたことになる。
当時、じぶんがそれを知り何を思ったかははっきりと思い出せないが、それほど高い関心を持たなかったように思う。嫌悪感と冷めた気持ちが混ざったような感情でそのことに接していたように思う。いまのようにSNSなどで知ったわけではなく、ひとりひっそりと昏い何かに触れたせいでそうなったのかもしれない。だからだろうか、何にしろ、発表された/される作品、つまり彼の音楽を聴いてなにかを思うほかないと考えていた。

永山則夫については、知らないひともいるだろうから調べてもらいたいが、1968年に拳銃で連続殺人を行い、後に死刑となった犯罪者である。
なぜ彼が想起されたのかだが、彼は獄中で小説を執筆しそれが評価を受け、1990年、日本文藝家協会への入会を申請する運びとなる。ところがこれを協会が拒んだことがきっかけで、協会を脱退する作家が複数あらわれる騒動となった。要するに、殺人犯は協会が守るべき文藝家であるか否かが争点となったのだ。
この複雑な問題をさらに複雑にしてしまうのが死刑制度である。死刑囚は自死できない。彼らにとっては、他者から殺されることがその刑罰であるからだ。永山則夫は協会への入会を希望した時点では、当然まだその刑罰を受けていなかった。罪はまだ罰されておらず、彼は法のもと許されてはいなかった。
果たして、そのことと彼の作品にいかなる因果を想うか——、30年前、それは世に問われていたわけである。

このことと死刑制度の是非について仔細に述べようとするとあまりに長くなるので、このあたりで次に進むが、では、Corneliusこと小山田圭吾が過去に行った行動はいつ許されるのか。
まず、彼が過去に行った行動は、現在の彼に犯罪者の烙印を押すことはできない。つまり、社会的にそもそも罪を問われておらず、ゆえに処される刑罰もない。彼が過去に、あるいはいまできるのは、過去の自身の過ちを認め反省や後悔をすることだけだ。
そしてその内容は、他者が評価できるものではない。彼の過去の行動に嫌悪感を抱き憎むのは自由だが、彼を許せるものは誰もいないのだ。
このことが、今回のことがおれに死刑という刑罰を想起させる理由となった。

彼はすでに、憎悪だけを一方的に受け、許される立場にはない。これは死刑と似ている。死刑囚は、生を奪われ、この世から消えてしまうことでしか刑罰を受けることができず、最期まで許される立場にない。法的に、許されるということが許されない。ゆえに殺される。
いま、小山田圭吾が過去に行った行動について行われていることは、この、許されるということが許されない、という性質に酷似しているように感じられる。

法に問われていない罪は己によって罰するほかない。そのことは多くに人の知るところだと思う。最期まで、自身によって過去の罪を許せず、罰し切れない、許されない人生を送る人も少なからずいるだろう。それは、やはり他者が評価できるものではない罰だ。憎むのは自由だが、断罪はわれわれの範疇にはない。

名もなきひとびとの声が、許されるということが許されない世の中を作る時代になってしまった。それは死刑を除くすべての刑罰よりも残酷であるにも関わらず、大きな力になってしまった。そして、その恐ろしい事実が、2021年に開催される東京五輪というくだらない催しによって歴史に刻まれる。私たちの手で。くだらない。本当にくだらない。小山田圭吾が今後、どんな音楽を作るのか、あるいは作らないのか、彼が過去に行った行動を彼が「本当に」反省しているか否か、それらは我々に問えることではない。彼が過去に行った問題とそれに関する雑誌のインタビュー記事がただただ不快だった——そうだったしても、それとこれとは話が別だ。

2021年に開催される東京五輪という素晴らしい催しに、彼のような過去を持つものの音楽はふさわしくない——、そんな素朴な意見ならば理解できる。ただ、この場合、そもそも彼の過去を断じる必要はなく、やはりいまの世の声は、ただただ力なく闇に吸い込まれているだけと言うほかない。

軟弱で醜悪な感情が徒党を組んで歩き出す。でも三歩歩けば忘れるから、もうこの日記を読んでもなんのことかわからないだろう——、冷めた想いで眺めているのならば、おれもまた徒党のひとりと看做すべきか、だとしたら——。そんなふうにいま、ほんとうは触れたくもない話題で日記を書いている。書いていた。今ここから、未来の人へ。