2021年8月13日(金)

この一週間は慌ただしい天候で、なにもしないのにずいぶん疲れてしまった。颱風と猛暑にあてられエアコンに冷えていたら、昨夜からはとつぜんエアコン不要の気温と降り続く雨。くらくらする。

特に発見もなく、あたらしく述べることも思い浮かばない。点検が終われば全部ごみ箱に捨てられた。

阿部和重『BLACK CHAMBER MUSIC』を読み始める。
Caroline Polachek『So Hot You’re Hurting My Feelings (A. G. Cook Remix)』を繰り返し聴いている。

2021年8月5日(木)

猫のごはん屋さんの朝は早い。この季節であれば、午前4時頃には起床し、前日に準備しておいた猫のごはん袋をかついで家を出る。
隣のどぜう屋の傍にある小径を抜け、参道近くの拓けた場所で折りたたみ椅子を広げると、もう常連が二匹ほど姿を見せている。あわてていつもいちばん乗りの二匹のためのごはんを小皿によそう。
午前11時頃までにあと三匹ほどやってきて、そこからしばらくは客が無いので一旦帰宅する。小皿を洗い、テレビを着ければ外国で様々の国の陸上選手たちがいつも競技にのぞんでいる。
区の放送が午後4時を告げるころ、ふたたび家を出る。それから夜の9時頃までちらほらと客が来るが、たいていの時間は街灯で本を読んだり音楽を聴いたり、適当なごはんを三種類ほど小皿に出し、席を外していますと書いた札を留め置き家に戻ったりと、呑気な仕事である。
猫たちが毎日来てくれるのが対価だから、収入はない。でもそうやって暮らしている。

とかが良いな、日記。

2021年8月4日(水)

iPhoneが傍に。MacBook Airのキーボードを打っている。大好きなコカ・コーラを飲みながら。Apple Musicで数多の素晴らしい音楽を聴きながら。
Amazonで買った割引されたサントリーの天然水とグリーンダカラが、YouTube、Netflix、Amazonプライム・ビデオを見ている時、あるいはPS4でゲームをしている時——どちらにしろここは外ではなく、外は夏で、熱中症と感染症と犯罪者と交通事故とその他不幸がレーザービームのように建物の外壁に反射し続けその熱で感情が焼け爛れれる季節——宅配便の従業員によって人力で四階の我が家にダンボールで届けられる。
やはりiPhoneが傍に。電話が鳴っても取らない。Twitterでは厄介な話。マジでクソだなとつぶやいたりツイートしたりしてからテレビでオリンピックの陸上競技の中継に夢中になってすべて忘れて寝る。思い出してから忘れて寝る。この音楽良いね。寝る。煙草、また値上がりするのか。

想像すればするほど自分は罪人で、だからいまも罰を受けている最中だ。常に加害の意識があるが、なにもできない。この無力感もまた罰であり、贖罪などどこにもない。謝る相手なんてどこにもいない。ただ苦しむ。それも、できる限り長く。そして罪人のまま死ぬのだ。
世界のすべての最低な出来事はおれの罪で、おれがこんな暮らしをしなければ、名古屋の醜悪で薄汚いクソ市長が他人の金メダルに齧りつくことも病床が不足することもどこかの誰かが不倫することもなかった——わけないだろう! たしかにそんなわけはない。しかし俺はそれでも間違いなく因子であり加害者だ。それはお前もだが、そのことは自分で折り合いをつけてくれ。前述のとおり、俺は自分のことすら手に負えない。仮にお前が潔白のつもりなら、そんなふうな顔で街を歩けば良い。俺はそのことをとやかくは言わない。

クソ暑いし体もダルいしつまんないことばかりだ。金もない。不愉快だね。誰でも良いからなんとかしろよ! どうせ自分のことで精一杯なんだろ? 誰もなんとかしないんだったら、俺もお前もこの最低な世界における罪で、いまの世界そのものが罰だ。どこかで可愛い赤ん坊や仔猫だってその罰に苦しんでるだろう。もう死ね! でも、死ぬまで誰にも謝ることはできないうえに、なぜかいまここにあるこの欲望は失われない。この眼が色を判別できることに驚きを隠せない。

2021年8月2日(月)

酷暑。東京五輪12日目とのこと。テレビで陸上競技をいくつか見たが、どれも基本的には日本人選手の出場があるから中継されており、おれが見たいものはあまり見せてもらえない。

さて、やはりずっと家にいるが、外ではいろいろなことが起きているらしい。たとえばおれの住む東京ではコロナウイルスのデルタ株が猛威をふるっており、救急搬送が困難な事例が頻出、極端なものでは、

男性(50代)はコロナ感染し呼吸困難の状態で、救急隊が搬送先を探しましたが、およそ100の医療施設が態勢の不備などを理由に受け入れを断ったということです。

【独自】都内約100病院が拒否 コロナ救急患者搬送に8時間

というような報道があった。
仮に明日ワクチンを接種できたとしても、効果が期待できるのは二回目の接種の二週間後という話だから、少なくともひと月はマスクや手洗いといったこれまでの自衛でのみ切り抜けるほかなく、やはりまだまだ家にいなければならないようだ。

藤本タツキ『ルックバック』が、読者からの指摘を受け、作中の描写が偏見や差別の助長にならないよう一部を修正、との報。
『ルックバック』は未読だったのだが、どうせ(先日の日記にも書いた)小山田圭吾が東京五輪の開会式の作曲担当を辞任したことを受け、『チェンソーマン』のMAPPAによるアニメ化と漫画の第二部を控えたタイミングでもあることから、余計な騒ぎを避けたというような内実なのだろう、と勘繰り、だとすればうんざりとするような話だと思いつつ、すでに前述の修正が行われた『ルックバック』、及び修正に至る経緯の関連情報、修正箇所の指摘などに目を通すと、どうやらそこまで単純な話のようでもなく、少し安堵する。単純な話ではない、と判断したのは、先ず『ルックバック』という作品の性質、それから藤本タツキという作家性、最後に指摘の内容からである。
二十年来の筒井康隆ファンとしてはこの件について当然「断筆宣言」を思い起こすのだが、『ルックバック』が「少年ジャンプ+」というウェブ媒体のメディアで発表されたこと、発表された日付が「京都アニメーション放火殺人事件」が起きた日付の翌日であったことなどから、(『朝のガスパール』を想起し)当初から多くのフィードバックとその後のアップデートを意識して発表、制作されていたようにも感じられ、だとすれば、これはひとつの「いまの戦略的抵抗」なのではないか? と感じさせる気配もあり、ゆえに話は単純ではなく、もう少し考えたいと思わせる希望も儚くはない。たぶん……。

あとは……、

なんか、マクスウェルの悪魔において、情報の記憶ではなく忘却の際にこそエントロピーは変動する、という話を連想したけど、たぶん関係ない。でも、リツイートにはどうも、忘却のための行為というか、他人が勝手にお焚き上げしてる感じがある。エントロピーが拡散するには、やはり観測の忘却が、的な……

こんなことをツイートしたが、過去にも似たようなことを書いた気がするのは、取り上げた話題が「リツイート」と、なにをいまさらな内容だからだ。いつ始まったのかも知らず、一度も使ったことも見たこともなかった「フリート」という機能がなくなるタイミングで「リツイート」について何を言おうというのか、という感じだが、内容は先に言ったようにおそらく過去と同じ、つまり、やっぱりまだ意味がよくわからない。リツイートとはどういう行為なのか。

先の引用に続けて、

(梱包用の)プチプチを脳細胞に見立てて、それをプチプチするという小さな快感にとらわれている人のイラストを載せたツイートがたくさんリツイートされ、しかしリツイートした当人は皆そのイラストのことを覚えておらず、ただTL(タイムライン)の異物としてそれを目にした人だけが記憶している。なんだこれ?って。

などとも言ってみたが、こんな例えが包括的でないことは重々承知だ。たぶん、ざっくばらんに言えば、お前の話が聞きたいのに、なんで人から聞いた話ばっかりするんだよ! というか、人から聞いた話をしてすらないか。その様子撮影したから見といて、って言われた感じ! という不満であり、もっといえば嫌悪なのだろう。
……まあ、もうおれのTwitterの使い方が時代遅れなのかもしれない。なにしろ、まだ「リツイート」とはいかなる行為なのか理解できていないのだから……。誰か教えてくれ。あの行為の背後にいかなる心理が働いているのかを……。