気付けば八月が終わっていた。外は雨が降り、気温が急に下がった。前回の日記からの空白を思いつくままに埋めていこうと思う。
先ず、阿部和重『BLACK CHAMBER MUSIC』は読み終えている。たしか、三四日で集中的に読んでしまったはずだ。それから『ライティングの哲学』(千葉雅也、山内朋樹、読書猿、瀬下翔太)という表題の新書も読んだ。
『沖縄やくざ戦争』が印象深い……というか、あの映画で大好きになった。R.I.P.
これは20日のツイート。千葉真一の訃報にふれてのこと。
23日に「あとがき」が書き加えられたことによって、筒井(康隆)さんのブログ『偽文士日碌』が終わってしまった。その矢先、27日に楳図かずおが来年1月に26年ぶりの新作を発表との報。翌28日未明、ひさしぶりに『朝まで生テレビ!』を見かけ、田原総一朗の滑舌がずいぶんと悪くなってしまったことにはじまり、なんというか、色々と変わってしまったのだな、と思う。以上、80代男性のこの頃を想う日々について。
今年一番気に入っている音楽は、Lost Girls(Jenny Hval & Håvard Volden)の『Menneskekollektivet』というアルバムだが、ノルウェー語のこの表題は「人間の集団」と翻訳される。この言葉が気に入って、タイトルをそのままいただき『人間の集団』という小説をしばらく前から構想しているのだけれども、ふと気になったのは、本当にこの言葉は「人間の集団」と翻訳すべき言葉なのかどうかだ。
というのも、人間は「人間の集団」などと口にしない。それを指すのならば、人々だとか、群衆だとか、mobだとかで、わざわざ「人間の集団」と言葉にするのはあまり人間らしくない。「狼の群れ」「羊の大群」「外国人の集団」などは往々にして使われるが、これらは自分の外部に在るものと認知している特徴に使われているわけで、それにならえば「人間の集団」と言葉にするのは人間ではない。
つまり、「人間の集団」を見るなり考えるなりしているものが仮にあるとすれば、それは人間以外のものである。
ここのところが肝要なのだが、では、「Menneskekollektivet」というノルウェー語は、そうした「人間の外部に位置した目線」までも包容した言葉なのかどうか。そうだとすれば、どのように活用される言葉なのか。このあたりが気になったところであり、同時に、構想している小説の主要な要素になりそうだ。
で、他にも日記としていろいろと書き記しておきたいことはあるが、基本的に体調は優れず、特にやる気も出ない日々だった。アウトプットが足りず混濁してしまっているのだろう。この日記に限らないが、もう少し頻繁にいろいろを言語化しておくべきだと思ったのは『ライティングの哲学』を読んでの感想。
ところで、ずいぶん長い間泳いでいない。
泳ぐのはとても好きだ。0歳から母親に連れられ水泳教室に通っていて、当時の瞬間的な記憶もある——と言いたいが、その写真の一葉のような記憶には、母親と乳幼児である俺の姿が写されている。
そんな記憶はあるわけがなく、つまりこの一葉はのちの俺による創作であり、しかしそんなことをいつどんな動機で行ったのかは覚えていない。
ただ、実際に0歳から水泳教室には通わされていたし、泳ぐことはとても好きで、でも、ずいぶん長い間泳いでいなくて、最後に泳いだのは一体いつどこでだったか……、海か湖かプールか……。とにかく、とても好きなのに、泳いでいない。