2021年9月24日(金)

ここ数日、ふたたび暑い日が続いている。
前回の日記から十日空き、この間、それらの日々をどのように記せば良いのかわからず、きっかけを待つうちに時間だけが経ってしまった。仕方がないので、特にきっかけを得ず、日記らしくただあったことを留め置くことにする。

21日(火)、血液検査の結果を受けに病院へ。LDLコレステロールの値が高く、他は問題ないとのこと。遺伝的にそうであることは既知だったため安堵する。帰路、駅前のコンビニに立ち寄ると、黄色地に赤い文字で「煙草値上がりします!」と店を埋め尽くす量の張り紙。ラッキーストライクのボックスを1カートン買って帰る。

23日(木)夕方、区役所にコロナワクチン接種に出向く。一度目の接種。副反応は打った箇所に打ち身のような痛みが少しあるだけだった。

——と、地味で渋い内容ばかりが書き起こされているが、十日の間にはそうでないこともあり、とはいえ日記としてここに記しておこうと思えることは上記のようなものだけになってしまった。

すべてを頭の中に置いておこうとすると、それらがぐるぐると廻り自家中毒を起こす。定期的に放出し簡易的に忘れる——日記は一種のデトックスとして機能するため、検閲を受け、いまはもう忘れてもよいと認可されたものばかりがここに陳列されている。さして思い返すつもりもないのにインデックスを付け、そんなかりそめの態度によって捨て置くことの免罪を得ようとしている。つまりは埃を払い、喜びと秘密だけを身体に匿っておこうということか。
たしかに、衣服のさらに内側には、そうしたものを纏っておかなければまともな様相で街を歩ける気がしない。

ここには、置き去りにされたものたちがそのことを伝えられず、もっと言えば騙された状態で並べられているのかもしれない。時々は黙祷でもするからいつか成仏してくれれば良いが——、いや、ほんとうのことを言えば、朽ち果てたすえに風にさらわれ舞い散る砂塵となり消失を表現して欲しいと思っているのかもしれない。

今回の日記もそろそろ一年。また少し不自由になってきた。

2021年9月14日(火)

13日(月)、7日付の日記に記したが、先日自宅で出来る簡易の血液検査を行った。その結果がわかり、案の定、病院に行けと書かれていたためそれに従う。
自転車で行ける距離だったが、この日はこのところにしては暑く、夕方になってもなおそうだったのと、たまには音楽を聴きながら街を行きたい気持ちになり電車に乗る。

前日(12日)のことだが、イギリスや中国の民話のことを考えているうちに、阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界』(2021年7月3日付の日記を参照)のことへと思考が移り、それから宮本常一のことを思い出したので本棚で『忘れられた日本人』を探すも見つからず。
通院のために初めて訪れた駅の近くに良さげな本屋があり、上記のことを思い出し探すと『忘れられた日本人』はすぐに見つかった。ほんとうにずっと家にいる生活が続いているため、このことで、なんというか、出掛けている、という気分になる。と同時に、現在進行中で喪失しているいろいろのその大きさに混乱もした。

病院では、簡易の血液検査を根拠に来院したため、あらためてより精緻な血液検査などを行い帰宅。その結果が出る来週にまた通院する予定だが、出掛けられる、と少し楽しみな気分もあり、おれは本当に出掛けていなかったのだなとつくづく。

音楽はCaroline Polachek『Pang』を繰り返し。

2021年9月9日(木)

購入を忘れていた『太郎は水になりたかった』3巻を読む。
3巻は分厚い。全3巻を並べた背表紙を眺めていると、分厚い一冊で刊行されるのがこの作品に適した形に思えてくる。

岩波新書の新刊『死者と霊性』(末木文美士編)を読み始めてすぐ、下に引用する過去(今年8月9日)のツイートのことを思い出しこの日記を書き始める。

(引き続き『24時』を聴いていて)あ、なんかコロナとその周辺って、「死」の印象とか感触すら変えてるのかって思うと、思ってたよりさらに大事だな。「死」の悲痛さばかり目にしていて、併せ持っていた(と思う)ある種の清々しさのような感触を忘れつつある。え? その影響たるや!

引用の『24時』とは、サニーデイ・サービスが1998年夏にリリースしたアルバム——全体的に、——夏の熱気と潮風が掻き混ざったべたつきのような——死の影がちらつく作品——で、『ぼくは死ぬのさ』という直接的な曲も収録されている。
さて、引用のツイートについてだが、これは問題のある言い方——とはいえ、そうならざるを得ないこと、それ自体が問題——なのだが、コロナで死ぬのは、「いやな死に方」だと思っていることに気付いたのがその動機だった。そう思った理由は複合的かつ、その組成が広域に及ぶため、なにから話せば良いのかが日記程度のものでは直裁できないのだけれども、端的に言えば、おそらくそれが忌避すべき死の形だと、すでに長い期間——約一年半——喧伝されてきたからだろう——そもそもコロナに感染し亡くなった遺骸は遺族から物理的に隔離されてしまうのだから——。
コロナによる死=良くない死、といった印象が形成され、さらにそこには「死」が本来持ちうる「ある種の清々しさ」が欠けている。「その影響たるや!」とツイートしているが、いま、ふたたび死を忌避すべきものだと烙印すること、それは今後への影響を想えばたいへん危険なことだと思う——いつのまにかその烙印は「すべての死」に染み渡り、穢れを思い起こさせるだろう——。

次に、上のツイートの直前のものを引く。

『24時』(サニーデイ・サービス)、『METAL LUNCHBOX』(GREST3)を聴いてる。90年代末の混乱と絶望に、それぞれ「まともな」と付けたくなるような気分。いま思えば、「まともに」混乱し、「まともに」絶望していただなんて……、もうちょっとマシなこと言わないと……。

「すでに」混乱し、あてもなく絶望していたあの頃のそれらに、「まともな」と付与したくなる気分を顧みたとき、その場所は、すでに死生観が誤りを犯す危険水域にあったのだろう。

このこととどのようにして向き合えば良いのか。
この20年ほどの間うやむやにし続けていたさまざまがコロナという決壊によって溢れ出し、我々に抵抗する間も術もを与えずすべてを変えてしまうのか。眺めるか飛び込むかしか選べないのならば、そこにもはや日常はない。

2021年9月7日(火)

前回の日記を参照すると4日に風呂掃除をしている。そこから芋づる式に記憶を手繰ると、5日は空気清浄機とサーキュレーターを清掃し、区に申請すると無料で届けられる「スマホ de ドック」という簡易血液検査を自宅で行った。その際、数年ぶりに体重を計る必要にかられ、飼い猫だったもきちの遺骨の下にある体重計——もきちはなぜか体重計が好きで、よくその上に寝そべっていたため、それに倣ってそうしている——を引っ張り出す。体脂肪率を計測するために年齢を入力する必要があるその機械をひさしぶりに起動するとおれは34歳のままだった。三四年ぶりにそれの上に乗ることになる。体重は想定していたより5kg重く、ちょうど身長から割り出される標準体重になっていた。もう自分は痩せ型だという認識をあらためなければならない。不摂生が続いている。おそらく後日伝えられる血液検査の結果も芳しくないだろう。

翌6日は朝から冷蔵庫を磨いた。三日続けてなにかしらの清掃をしていることから、神経症とまではいかないものの、その類縁のストレスを感じていたのだろう。夕方にコインランドリーに出向き、連日の雨で溜まっていた洗濯物を一息にやっつける。

本日7日。一昨日から取り組んでいるデザインの仕事がうまくいかず一日唸っていた。それらしくてもときめきがないと抜け殻。一体なぜ中身がないのか。中身とはなにか。どうすれば中身は生まれるのか。毎度いちからそれを始めその繰り返しである。日常は観察。

2021年9月4日(土)

午前6時過ぎに起床し風呂掃除。徹底的にやってやろうと、体力のいちばんある寝起きに風呂場に飛び込み手当たり次第にブラシで擦る。そのうちに血が巡ってきて考え事。小学校で学んだもっとも有意義だったことはなにか。それは掃除ではないだろうか。掃除など家でもできると思われるかもしれないが、不特定多数の他人による汚れまで掃除する機会は家庭にはない。ああ人がたくさんにいるとこんなに、こんなふうに汚れるんだと学ぶ。そういえばアルバイトでは掃除ばかりしていた。どの職場でも掃除は基本だろうが、おれが働いていたレジャー施設のプールやスーパー銭湯といった場所は多くの人が訪れるためひたすら掃除に追われていた。そして学ぶ。人は裸に近い格好で大量の水がある場所に行くと、開放的な気分からか排泄なども良い加減な態度で行う。畜生。どちらかと言えば潔癖な子供だったと思うが、アルバイトを経て他人の吐瀉物や排泄物への耐性がずいぶん付いた。バイト先のプールと風呂、どちらともに正直言って人としてはどうかと思われるつまはじきものばかりが同僚だったが、他人の排泄物を平然と素手で処理してしまわれてはなにか人として敵わないという気持ちにさせられる。素行は最低だがすごい。迫力がある。こうでなくてはいけないのだと思わされる。その行為を通して優しくなれるといっても過言ではない。なぜ早朝から風呂を磨いているのかというと、風呂に入りたかったからに決まっている。夏はシャワーで済ますことがほとんどで、このところ急に気温が下がり湯船につかろうと昨夜風呂場を見ると薄汚れていた。目が悪い人間は眼鏡を外して使用する場所の汚れに気が付かない。風呂掃除をしよう。明日にしよう。すぐにいろいろを明日にしてしまう俺だがちゃんと明日である今日は顔を洗う前に風呂場を洗いに向かった。記憶は連続している。さて、メラミンスポンジとブラシで磨ける箇所は終わった。仕上げにと浴槽用の洗剤を手にすると空だった。まだ早朝なのでスーパーは開いていなかったが挫けずにコンビニに出向き目的の物を購入し帰宅後すぐに風呂掃除を再開する。綺麗になった。おれの家の風呂場はたしかに綺麗になったが、いったいなぜこんな文章を読まされているのかとこれを読んでいる人は思っているかもしれない。利己的文章の際たるものは個人的メモ書きだろう。次のレベルあたりに日記があるだろうが、この日記は公開されているためさらに高次といえる。つまり読まれることを前提とすべきものだが、もう誰もそんなものは読みたくないのだ。いや、そんなことはないか。知らないが、そんな気がする。利他的な文章の代表格は報道記事だろうか。小説はどうだろう。フィクションでのあれこれが利他的な文章になどなり得るのか。加えて、作者に寄与せずただその小説に寄与する文章だけを書き連ねるという、文章が文章を書くかのような小説を夢想し『天使、インタプリタ』という小品を昨年書いたが、いま手がけている『人間の集団』はそれを引き継ぎさらにその先に歩みを進めたい。他人にとっておもしろいものになるかどうかを考えることはずいぶん前にやめてしまい、自分がおもしろいことにすら疑いを感じだせばこんなやり方だけが残っていた。果たしてそれは残っていたと言える状態か。いや、他にもまだまだあるはずで、だからこそここを通過する必要がある。すっかり綺麗になった風呂に湯を張りしばし休息。おれは綺麗に掃除した風呂で朝風呂を浴びる。正直、風呂掃除をしていた時のほうが楽しかったが、目的地など得てしてこのようなものである。