2021年9月4日(土)

午前6時過ぎに起床し風呂掃除。徹底的にやってやろうと、体力のいちばんある寝起きに風呂場に飛び込み手当たり次第にブラシで擦る。そのうちに血が巡ってきて考え事。小学校で学んだもっとも有意義だったことはなにか。それは掃除ではないだろうか。掃除など家でもできると思われるかもしれないが、不特定多数の他人による汚れまで掃除する機会は家庭にはない。ああ人がたくさんにいるとこんなに、こんなふうに汚れるんだと学ぶ。そういえばアルバイトでは掃除ばかりしていた。どの職場でも掃除は基本だろうが、おれが働いていたレジャー施設のプールやスーパー銭湯といった場所は多くの人が訪れるためひたすら掃除に追われていた。そして学ぶ。人は裸に近い格好で大量の水がある場所に行くと、開放的な気分からか排泄なども良い加減な態度で行う。畜生。どちらかと言えば潔癖な子供だったと思うが、アルバイトを経て他人の吐瀉物や排泄物への耐性がずいぶん付いた。バイト先のプールと風呂、どちらともに正直言って人としてはどうかと思われるつまはじきものばかりが同僚だったが、他人の排泄物を平然と素手で処理してしまわれてはなにか人として敵わないという気持ちにさせられる。素行は最低だがすごい。迫力がある。こうでなくてはいけないのだと思わされる。その行為を通して優しくなれるといっても過言ではない。なぜ早朝から風呂を磨いているのかというと、風呂に入りたかったからに決まっている。夏はシャワーで済ますことがほとんどで、このところ急に気温が下がり湯船につかろうと昨夜風呂場を見ると薄汚れていた。目が悪い人間は眼鏡を外して使用する場所の汚れに気が付かない。風呂掃除をしよう。明日にしよう。すぐにいろいろを明日にしてしまう俺だがちゃんと明日である今日は顔を洗う前に風呂場を洗いに向かった。記憶は連続している。さて、メラミンスポンジとブラシで磨ける箇所は終わった。仕上げにと浴槽用の洗剤を手にすると空だった。まだ早朝なのでスーパーは開いていなかったが挫けずにコンビニに出向き目的の物を購入し帰宅後すぐに風呂掃除を再開する。綺麗になった。おれの家の風呂場はたしかに綺麗になったが、いったいなぜこんな文章を読まされているのかとこれを読んでいる人は思っているかもしれない。利己的文章の際たるものは個人的メモ書きだろう。次のレベルあたりに日記があるだろうが、この日記は公開されているためさらに高次といえる。つまり読まれることを前提とすべきものだが、もう誰もそんなものは読みたくないのだ。いや、そんなことはないか。知らないが、そんな気がする。利他的な文章の代表格は報道記事だろうか。小説はどうだろう。フィクションでのあれこれが利他的な文章になどなり得るのか。加えて、作者に寄与せずただその小説に寄与する文章だけを書き連ねるという、文章が文章を書くかのような小説を夢想し『天使、インタプリタ』という小品を昨年書いたが、いま手がけている『人間の集団』はそれを引き継ぎさらにその先に歩みを進めたい。他人にとっておもしろいものになるかどうかを考えることはずいぶん前にやめてしまい、自分がおもしろいことにすら疑いを感じだせばこんなやり方だけが残っていた。果たしてそれは残っていたと言える状態か。いや、他にもまだまだあるはずで、だからこそここを通過する必要がある。すっかり綺麗になった風呂に湯を張りしばし休息。おれは綺麗に掃除した風呂で朝風呂を浴びる。正直、風呂掃除をしていた時のほうが楽しかったが、目的地など得てしてこのようなものである。