2021年9月9日(木)

購入を忘れていた『太郎は水になりたかった』3巻を読む。
3巻は分厚い。全3巻を並べた背表紙を眺めていると、分厚い一冊で刊行されるのがこの作品に適した形に思えてくる。

岩波新書の新刊『死者と霊性』(末木文美士編)を読み始めてすぐ、下に引用する過去(今年8月9日)のツイートのことを思い出しこの日記を書き始める。

(引き続き『24時』を聴いていて)あ、なんかコロナとその周辺って、「死」の印象とか感触すら変えてるのかって思うと、思ってたよりさらに大事だな。「死」の悲痛さばかり目にしていて、併せ持っていた(と思う)ある種の清々しさのような感触を忘れつつある。え? その影響たるや!

引用の『24時』とは、サニーデイ・サービスが1998年夏にリリースしたアルバム——全体的に、——夏の熱気と潮風が掻き混ざったべたつきのような——死の影がちらつく作品——で、『ぼくは死ぬのさ』という直接的な曲も収録されている。
さて、引用のツイートについてだが、これは問題のある言い方——とはいえ、そうならざるを得ないこと、それ自体が問題——なのだが、コロナで死ぬのは、「いやな死に方」だと思っていることに気付いたのがその動機だった。そう思った理由は複合的かつ、その組成が広域に及ぶため、なにから話せば良いのかが日記程度のものでは直裁できないのだけれども、端的に言えば、おそらくそれが忌避すべき死の形だと、すでに長い期間——約一年半——喧伝されてきたからだろう——そもそもコロナに感染し亡くなった遺骸は遺族から物理的に隔離されてしまうのだから——。
コロナによる死=良くない死、といった印象が形成され、さらにそこには「死」が本来持ちうる「ある種の清々しさ」が欠けている。「その影響たるや!」とツイートしているが、いま、ふたたび死を忌避すべきものだと烙印すること、それは今後への影響を想えばたいへん危険なことだと思う——いつのまにかその烙印は「すべての死」に染み渡り、穢れを思い起こさせるだろう——。

次に、上のツイートの直前のものを引く。

『24時』(サニーデイ・サービス)、『METAL LUNCHBOX』(GREST3)を聴いてる。90年代末の混乱と絶望に、それぞれ「まともな」と付けたくなるような気分。いま思えば、「まともに」混乱し、「まともに」絶望していただなんて……、もうちょっとマシなこと言わないと……。

「すでに」混乱し、あてもなく絶望していたあの頃のそれらに、「まともな」と付与したくなる気分を顧みたとき、その場所は、すでに死生観が誤りを犯す危険水域にあったのだろう。

このこととどのようにして向き合えば良いのか。
この20年ほどの間うやむやにし続けていたさまざまがコロナという決壊によって溢れ出し、我々に抵抗する間も術もを与えずすべてを変えてしまうのか。眺めるか飛び込むかしか選べないのならば、そこにもはや日常はない。