2022年6月8日(水)

泥舟が沈み、惰性で川中に浮かんでいる。空を見ているが、空について考えることはとくにない。
それよりも、零距離にある身体の不調で意識は満たされる。見て、考えて、それはその場でくるくると回転しているようなものだ。じつのところ見ても考えてもいない。問題と同化してしまっているのだろうか。

いまはいないが、長いあいだ猫を飼っていた。彼らのことはいつまでも見ていられた。見られてもいた。長い時間、見つめたり観察したり、ただ見たりした。
ところで、動物園で動物を見ていて、檻の向こうから見られると少し気まずい。

見る/見られる、とはなんだろう。

とつぜんだが、ここでVTuberの壱百満天原サロメの発言を引く。

わたくしがどうして配信を始めたかといったら、みなさまに笑顔になって欲しいから。
ですからわたくしね、配信というかみなさまに伝えるうえでわたくしは、わたくしというコンテンツとして、こう、ネガティブなことはあまり言いたくないと、いつも笑顔で、こう、笑顔でというか、どんな話をしましてもみなさまに笑っていただけますようにと思っているんですけれども——、まあ、ものには限界というものがございましてよ!
どうかみなさま! こんなわたくしを見て、笑って!

【おバイオ7】BIOHAZARD 7 ✦ をプレイいたしますわ! ✦6【ですわ】※おグロ版

この感動的な発言は、実況していたゲーム『BIOHAZARD 7 resident evil』のあまりの怖さに憔悴していた壱百満天原サロメの、強固な「見られる」への意識によって生まれたものだと思う。

異常なほど大量の「見られる」を前に、「見られている自分を見る」を繰り返すことは生身の肉体に耐えられるものではないのかもしれない。ゆえに極限の「見られる」を実現しようとしているその存在はヴァーチャルである。
それにしても、一体「そこから」はなにが見えているのだろうか。
具体的には、——YouTubeのチャット欄にあらわれる、その膨大な視聴者数からあまりにも刹那的な、声の文字化とでもいうべきもののマトリックスの連続——その極一部である。

そこに生じるあまりにも幽しい「距離」が偽物であることを、配信者はおそらく理解している。だからかれらは、「見る/見られる」の関係を持つ架空の誰かを作り出すほかないのではないだろうか。そしてそれはきっと、かれら自身にほかならない。

多くの人が、気づかぬうちにその場でくるくると回転している。他者を見ることがあまりにも困難となってしまったのだ。
きっと「私」の絶望はそこにある。

泥舟が沈み、惰性で川中に浮かんでいる。空を見ているが、空について考えることはとくにない。それはひとつながりでなく、遍在するばらばらの空。
それらを貫通するものがあるとすれば、おそらく空気の振動だけだろう。
声であり、歌である。