Bandcampで買ったLevon Vincent『SILENT CITIES』を聴いている。夜の音楽だ。2008年の名盤、Metronomy『Nights Out』の夜更けが78分間続くような粒状の光の連続。郊外の夜だけが、三十年先の光を見せている。郊外の夜だけが、三十年先の光を見せていた。
なんとなく、三十年——、特に空白のその時に興味があるようで、拙作『イサナの歌』にもそれは登場する。
なにか謂れがあるとは思っていなかったが、筒井康隆『附・ウクライナ幻想』の再読から連なり読み直した『イリヤ・ムウロメツ』(著・筒井康隆/絵・手塚治虫)の主人公イリヤは、生まれてからすぐに三十年の空白を生きることになる。イリヤの手足が三十年ものあいだ萎えていたのにはどんな意味があるのだろうか。ブィリーナの特質から考えて、節回しに由来するのか、あるいは宗教的意味があるのか、寡聞にして知らない。
いつか古い時は、郊外の夜を歩けば揺れるエレクトリック・ピアノの白い光線にいまと三十年先を見せられていたようだった。その白色は、夢や希望を語るのではなく絶望でもなく、ただただ圧倒的未知を感じさせた。
そういえば、と書架から小田光雄『〈郊外〉の誕生と死』を手に取り頁を繰る。1950年代のアメリカがいかに「自動車中心」の風景を描いていたか——デイビッド・ハルバースタム『幻想の超大国』からそのことを述べた箇所を引き、小田光雄はこう続けた。
日本の一九八〇年代以後の郊外の消費社会の風景になんと酷似していることだろうか! それに産業構造においても、アメリカの五〇年代と日本の八〇年代はまったく重なりあっている。そしてこのハルバースタムの文章は、「アメリカ」と「日本」を、「五〇年代」と「八〇年代」に置き換えれば、そのまま日本の風景を描いているといっても過言ではない。
小田光雄『〈郊外〉の誕生と死』、青弓社、1997年、122ページ
1983年生まれの「私」が10代だった頃、生まれ育った郊外の街からはたしかに未来を幻視できていたように思う。ところが、いまは同じ場所から30年遡った風景が見える。しかもそれは幻視ではなく、想像力の脆弱が生み出した景色だろう。そこにあり得る「距離」は過ぎ去った時間だけであり、固定された古い光でしかない。そんな「距離」に、光に、なにかあたらしいものを想うことは……、いや、それこそを感じ取るべきなのか? そんなはずは——と、取り返しのつかない行為に思えて恐ろしい。体が硬直する。生理的抵抗が生まれる。……そういえば、立ち止まり、あるいは振り返ることの価値をこの国では教えてもらえなかった。たとえ待ち受けるのが奈落であっても、まだ先のことであるというだけでわれわれはそちらを選ぶに決まっていた。
立ち止まる。もう長い時間が経ったように思うが、まだそれを続けている「私」を見ている。
見たい姿ではないが、おそらくはそれが必要かつ過酷な休息ゆえの不恰好なのだと、いまは判断しよう(判断? ほんとうに?)……。