宝飾品を身体に対するメタととらえる——、そんな簡単なことを思い付けばいろいろと考えがまとまった。
陸上競技者がまとう衣類と靴は、その役割を果たしながら、できるだけ無に近づこうとしている。
ところが、世界陸上を観ていると多くの競技者がなんらかの宝飾品を身につけていることに気が付く。多くはネックレスとピアスである。
ちなみに、男女による着用率の差はそこまで無いように思う。宝飾品を主に女性のものとみなすのは、特定の時代と場所に限られる。たとえば結婚指輪とシグネットリングのみが男性のアクセサリーだとされていたヨーロッパのある時期、あるいは飛鳥時代から明治期までの日本などである(読み返していて気がついたが、飛鳥時代から明治期までの日本では身に着けるための宝飾品自体が目立たないので、ここに挙げたのは不正確だ。また、李氏朝鮮時代を描いたドラマを観ていると、やはり指輪などの宝飾品は女性のものとして描かれており、もっと詳しく知れば「特定の時代と場所に限られる」とは言えなくなるのかもしれない。なにか良い資料はないだろうか)。
基本的に、人間は宝飾品で着飾る。綺麗だと思うものを身に付けたい。それは根源的な欲求なのだろう。
ところで、おれは宝飾品の類が好きだ。着けもしない指輪などをいくつか所持している。なぜ着けないのか。その理由には気恥ずかしさもあるが、重大なのは鬱陶しいということだ。着用していることが気になって仕方がない。結婚していた頃は、気恥ずかしさを感じず堂々と指輪を着用できると嬉しかったものだが、それでもやはりすぐにはずしてしまっていた。
要するに、宝飾品は身体でないことを主張し、それによって自身の身体を余計に意識させるものなのだろう。それが飾るためのものなのだから当然のことだが、同時に自身の身体をより強く意識させるという効果については陸上競技者を眺めていて考え至ったことだった。
より自身の身体の状態を、あるいは微細な変化を感知する。そのために身体以外のものを着用する。ネックレスの位置を整えることで身体に対する感覚をリセットする、というようなことを彼らは行なっているのではないか。
だとすれば、確かに鍛えることをしていない不具合だらけの身体をより強く意識することは不快であり、無意識に身体を忘れてしまおうと願っているものにとっては、それをリセットする宝飾品は邪魔でしかない。
また、この国にはいまだに手ぶらが好きな男性が多い、ということも一考すべきかもしれない。これは、着物の文化が形成した美意識の名残なのではないかと推量している。裸一貫、丸腰、ステゴロ。なにも持たないのが格好良いという美学は、この国の男性に脈々と受け継がれている。
そして、だからこそ——われわれ男性は宝飾品などは身に付けないのであり、身に着けるのは女性である。彼女たちは宝飾品を身につけることを喜ぶし、(おそらく)そのことで美しくなるのだ——、という曲解が男性の間で生まれた。また、それを家父長制が援護し、ある時期の女性にも同様の美意識が浸透したことは言うまでもない。
これはたぶん、大きな問題なのである。
男性はただただ自身の身体を置き去りに、目に移る女性に身体的な美を求める。この歪は、明治期以降の宝飾品によってもたらされた影響が多分にあるように思う。もちろん、それはすでに十分古い価値観になりつつあるが、滅ぶほどではない。むしろ形を変えて蔓延を続けているのは、半袖のカッターシャツを見ればわかることだ。
ただ、そうした土台をそれごと壊すような、男女ともにフラットな美意識の隆盛があることも知っている。そのことに全面的な異を唱えるつもりはないが、ただ、そこには落とし穴がある。未熟なその美意識が画一的なものを目指していること、そしてなにより表面的であることだ。歪さを均した後のことであるだけに、この落とし穴に彼らはなんの疑いも持たずに落ちていく。単純化されすぎてしまっているのだ。なぜ宝飾品を身に着けるのか、その根本がずれている。着けたいから着けているだけ、という無邪気を画一的な美は否定してしまう——。
——と、ここまで書いて疲れてしまった。仮に、宝飾品を着けたいから着けているだけ、という言葉を援護するためにここまで言い募らなければならなかったのだとしたら、もうどうしようもない。だいたい、時折は宝飾品を身に付け出掛けるおれだが、そこで他人と会ってもそのことについてなにか言われたことなどないのである。
そもそもこれは、いったい何の話だったんだ。これは、おれの話だった。これは、どうやらおれの話だ。おれはただ、宝飾品を身に付けている陸上競技者たちが格好良いと憧れているだけなのだった。着けたいなら、着ければよいだけだろう。簡単なことである。それなのに、まったく騒がしいし、面倒なことである。馬鹿の日記だ。