2022年7月23日(土)

宝飾品を身体に対するメタととらえる——、そんな簡単なことを思い付けばいろいろと考えがまとまった。

陸上競技者がまとう衣類と靴は、その役割を果たしながら、できるだけ無に近づこうとしている。
ところが、世界陸上を観ていると多くの競技者がなんらかの宝飾品を身につけていることに気が付く。多くはネックレスとピアスである。
ちなみに、男女による着用率の差はそこまで無いように思う。宝飾品を主に女性のものとみなすのは、特定の時代と場所に限られる。たとえば結婚指輪とシグネットリングのみが男性のアクセサリーだとされていたヨーロッパのある時期、あるいは飛鳥時代から明治期までの日本などである(読み返していて気がついたが、飛鳥時代から明治期までの日本では身に着けるための宝飾品自体が目立たないので、ここに挙げたのは不正確だ。また、李氏朝鮮時代を描いたドラマを観ていると、やはり指輪などの宝飾品は女性のものとして描かれており、もっと詳しく知れば「特定の時代と場所に限られる」とは言えなくなるのかもしれない。なにか良い資料はないだろうか)。
基本的に、人間は宝飾品で着飾る。綺麗だと思うものを身に付けたい。それは根源的な欲求なのだろう。

ところで、おれは宝飾品の類が好きだ。着けもしない指輪などをいくつか所持している。なぜ着けないのか。その理由には気恥ずかしさもあるが、重大なのは鬱陶しいということだ。着用していることが気になって仕方がない。結婚していた頃は、気恥ずかしさを感じず堂々と指輪を着用できると嬉しかったものだが、それでもやはりすぐにはずしてしまっていた。
要するに、宝飾品は身体でないことを主張し、それによって自身の身体を余計に意識させるものなのだろう。それが飾るためのものなのだから当然のことだが、同時に自身の身体をより強く意識させるという効果については陸上競技者を眺めていて考え至ったことだった。
より自身の身体の状態を、あるいは微細な変化を感知する。そのために身体以外のものを着用する。ネックレスの位置を整えることで身体に対する感覚をリセットする、というようなことを彼らは行なっているのではないか。
だとすれば、確かに鍛えることをしていない不具合だらけの身体をより強く意識することは不快であり、無意識に身体を忘れてしまおうと願っているものにとっては、それをリセットする宝飾品は邪魔でしかない。

また、この国にはいまだに手ぶらが好きな男性が多い、ということも一考すべきかもしれない。これは、着物の文化が形成した美意識の名残なのではないかと推量している。裸一貫、丸腰、ステゴロ。なにも持たないのが格好良いという美学は、この国の男性に脈々と受け継がれている。
そして、だからこそ——われわれ男性は宝飾品などは身に付けないのであり、身に着けるのは女性である。彼女たちは宝飾品を身につけることを喜ぶし、(おそらく)そのことで美しくなるのだ——、という曲解が男性の間で生まれた。また、それを家父長制が援護し、ある時期の女性にも同様の美意識が浸透したことは言うまでもない。
これはたぶん、大きな問題なのである。
男性はただただ自身の身体を置き去りに、目に移る女性に身体的な美を求める。この歪は、明治期以降の宝飾品によってもたらされた影響が多分にあるように思う。もちろん、それはすでに十分古い価値観になりつつあるが、滅ぶほどではない。むしろ形を変えて蔓延を続けているのは、半袖のカッターシャツを見ればわかることだ。

ただ、そうした土台をそれごと壊すような、男女ともにフラットな美意識の隆盛があることも知っている。そのことに全面的な異を唱えるつもりはないが、ただ、そこには落とし穴がある。未熟なその美意識が画一的なものを目指していること、そしてなにより表面的であることだ。歪さを均した後のことであるだけに、この落とし穴に彼らはなんの疑いも持たずに落ちていく。単純化されすぎてしまっているのだ。なぜ宝飾品を身に着けるのか、その根本がずれている。着けたいから着けているだけ、という無邪気を画一的な美は否定してしまう——。

——と、ここまで書いて疲れてしまった。仮に、宝飾品を着けたいから着けているだけ、という言葉を援護するためにここまで言い募らなければならなかったのだとしたら、もうどうしようもない。だいたい、時折は宝飾品を身に付け出掛けるおれだが、そこで他人と会ってもそのことについてなにか言われたことなどないのである。
そもそもこれは、いったい何の話だったんだ。これは、おれの話だった。これは、どうやらおれの話だ。おれはただ、宝飾品を身に付けている陸上競技者たちが格好良いと憧れているだけなのだった。着けたいなら、着ければよいだけだろう。簡単なことである。それなのに、まったく騒がしいし、面倒なことである。馬鹿の日記だ。

2022年7月21日(木)

この日記は2020年の11月からのログしか残っていないため、おれが世界陸上こと世界陸上競技選手権大会を偏愛していることには一度も触れていなかったと思う。
前回の開催は2019年、カタールのドーハ。世界陸上は隔年で開催されるため、本来であれば昨年にアメリカ、ユージーンで開幕するはずだった。ただ周知のとおり、コロナの影響で東京五輪が延期され、それに押し出される格好で今年の開催となったのだった。

まだ開催中だが、今年もまた素晴らしい大会になった。競技を見つつ選手の名前をツイートすることが長らくTwitterでの一番の愉楽で、今年もそれを繰り返している。バーシム、ドナルド・トーマス、真野、バンニーキルク、ハイレシュラシエ、ハッサン、ヨハン・ブレイク、シンビネ、サニブラウン、クルーザー、コバクス、ウォルシュ、タルー、クリスチャン・テイラー、ファイデク、シェリーアン・フレーザープライス、カンブンジ、マクワラ、キラニ、シェリカ・ジャクソン、ショーナ・ミラー、ドスサントス、エライン・トンプソン、アッシャースミス、ドグラス、ナイトン、ロハス、キプイエゴン、ブルース、セメンヤ、マクローフリン、ムハマド……。

そんな中、18日に山田せつ子&倉田翠ダンス公演『シロヤギ ト クロヤギ ト』を神楽坂セッションハウスで観た。シェリーアン・フレーザープライスが100m決勝で素晴らしい走りをした日の午後だ。(山田)せつ子さんも倉田(翠)さんも素晴らしかった。京都公演に引き続き宣伝美術を任せてもらえて光栄だった。

ところで、以下は18日未明のツイート。

確かに良い雲だ…

今回から、世界陸上を長年放映しているTBSは、YouTubeでの放映を開始した。ただ、日本時間で深夜に行われた競技などについては、翌朝からのテレビ放送用の素材といった趣で、競技の合間などのテレビコマーシャルが入る予定の時間はただ競技場が映ったりしている。
ある時、良い雲がオレゴンの青空に浮かんでいて、それがずっと映っている時間があった。カメラはあきらかに雲をとらえたものだった。それでツイートしたのが上記のものだが、良い雲とは? 良いとは、悪いとは——?
ふと思ったのは、競技者もダンサーも雲も、おれは同じように観ているということだ。良いとか、悪いとか。それらは言語の限界を超えて当然のものたちだ。だから良いとか、悪いとか——。
とにかく、どれも素晴らしかった。良かったのだ。
みんな世界の中で(世界を見ながら)勝手にやっている。その切実さ以外はガラクタだ。

2022年7月12日(火)

大童澄瞳『映像研には手を出すな!』7巻、青空文庫で夏目漱石『三四郎』を読む。

『映像研には手を出すな!』のほうは、単純に単行本が発売されるたびに購読しているものだからだ。ちなみに、他に購読しているマンガ作品は以下である。
池辺葵『ブランチライン』、鳥飼茜『サターンリターン』、吉田秋生『詩歌川百景』、市川春子『宝石の国』、うめざわしゅん『ダーウィン事変』、阿部共実『潮が舞い子が舞い』、宮崎夏次系『あなたはブンちゃんの恋』。
他にもあったように思うが、特にすばらしいのは『ブランチライン』『潮が舞い子が舞い』『あなたはブンちゃんの恋』。『宝石の国』は連載が再開されたとのことで楽しみだし、『先生の白い嘘』に打たれて以来読んでいる鳥飼茜の『サターンリターン』は尻上がりにおもしろくなっている。

他方、青空文庫で夏目漱石の『三四郎』を読んだ理由だが、かねてから六人兄弟の話を書こうと考えていて、六人もいると名前がややこしい、数字の序列にできないか、と悩んでいたところ、このところ読んでいた尾崎翠の作品にはそうした命名の方法が取られていて、おれの読んでいる岩波文庫『第七官界彷徨・琉璃玉の耳輪』の解説には、それは『三四郎』の影響ではないか、とあったからだった。
とはいえ、あまり参考にならず、というか、数字を順番に名前にあてることなどは簡単で、もっと厄介なのは兄弟姉妹の表記方法である。
つまり、いまのところ、長女(であり、長男でもある)次女、三女、四女、五女、六男、と考えているのだが、この場合、「きょうだい」をどのように漢字で表記すれば良いのか、ということである。
また、末の六男だが、表記法(?)によれば、ひとりめの男児ということで長男と記すこともある。
いずれにしても、長女は時に長男でもあるという複雑もあって、長々とした説明や妙なユーモアを交えずいかに明瞭にこの六人「きょうだい」を書き示すことが可能なのかがまだわかっていない。この六人は共通の両親を持つ、と記せば良いのだろうか。だったらきょうだいではないか、——共通の両親を持つ六人の上から三番目——持って回った言い方だ。意味あり気ではないか。でも、ひらがなで「きょうだい」と書くのも違和感があるし、兄弟、兄妹と書くと、長女は長男でもあるが基本的には長女なので、兄とは誰だ、と、いないものを記してしまっているような気持ちになる——、叙述トリックのようなことをしたいわけではない——というか、そんな疑いからなるべく逃れたいのだ。できることならば、上の例は、六人兄妹の三女、というように記したいのである。ただし、決定的に。
たとえば、尾崎翠は三男四女の長女である——と前述の解説にはあるが、では、彼女は上から何番目なのか、というのはこの一文だけではわからない。一番上、二番目、三番目、四番目のどれにも可能性がある。もちろん、解説を読み進めれば判明する。彼女は上から四番目だ。なぜなら、彼女の長兄、二兄、三兄に関する記述が続くからだ。ただ、その間、果たして「尾崎翠は三男四女の長女ですが、上から何番目でしょうか」という問題をかけられているような心持ちで、そのノイズがたまらなくいやである(そもそも当の解説だが、長兄、二兄、三兄の説明がそれほど必要には思えなかったし、妹たちについての言及はなにもない。やはりクイズの答え合わせなのではないかと疑ってしまう)。なんとかならないだろうか。
長い間このことを考えているが、ぜんぜんなんともならないことがだんだんとおそろしいことに感じられ、——こんな大変な問題がいままで放置されているはずがない、簡潔に記されているのを何度も目にしているにも関わらず、おれはなにか根本的なことを見落としている、そしてそれを思い込んでいるのではないか、という疑いが浮かび上がっては打ち消し、おれは頭がおかしくなってしまったのだろうか、いや、これは言葉の問題だ、とはいえ——を繰り返しているのだった。この日記を書き、読み直すうちによけいにわけがわからなくなってきた気がする。誰か助けてくれ。これが「呪い」なのか。

2022年7月11日(月)

レイ・ハラカミ『広い世界 と せまい世界』を聴いている。

できることならば、なるべく一息に近い刻に、距離はわずかでもかまわないから、並行した世界へ、移動したい、というような希望があって、今日読んだ尾崎翠『こおろぎ嬢』が、そうした理想に近いはじまりをしたので心打たれた。

昨日書いた日記でおれはなにが言いたかったのだろう、もしかするとずいぶん間違った考えだったのでは? と考えあぐね、昨日眠る前に何度か読み直したが答えは出ず、今日あらためたもののやはり判然としない。
そもそも「悪い」と書いてあるのだから「悪い」のだろうし、「悪い」という自覚のもと、それを記しているのだから、間違っているし、やはり「悪い」。
ただ、自ずから「悪い」と述べることは、社会に存在する意識からだし、そのうえでの断りなのだと思えば、健気なのかもしれない、と少しは思う。

2022年7月10日(日)

9日(土)のことから。
この日届いた池辺葵 『ブランチライン』4巻と、すでに買っていたが未読のままだった3巻を読むため1巻から読み直す。すばらしい。

ちらちらと目に入る昨日の凶行(安部元首相が銃撃され死亡した事件)の情報を見るに、犯人の動機は新興宗教(統一教会)が関係する怨恨のようである。実際のところはよくわからないままだが、政治的なものが直接の動機でないというのは、この国のいまを想うと腑に落ちるところがある。

10日(日)、本日。参議院議員選挙日。
くりかえし区の放送によって投票を促されるため、正午過ぎに投票に。
夜、尾崎翠『第七官界彷徨』を読む。とてもおもしろかった。

おれがまともに小説を読んだのは高専に通いだしてからのことだ。たぶん、15歳か16歳だっただろう。映画も、テレビで放映されるコマーシャルで細切れの、時間の都合でカットされた大作ばかりしか見ていなかった。音楽はいろいろなものをそれなりに愛好していたが、19歳、芸術分野における基礎的教養がほとんどないまま高専を中退し、芸大に進学した。
そこでの経験は強烈で、端的にいえば、こんなものまであるのか、こんなことまで表現しようとしているのか、という驚きにめまいがした。周囲より十年は遅れていると思った。それでも懸命にわかろうとしたが、理解がまったくなっていないという自覚は、それからずいぶん経ったいまもなお新鮮なままだ。

なぜこんな話をしたのかだが、尾崎翠『第七官界彷徨』の素晴らしさはいま読まなければあまりわからなかったと思ったのだ。『ブランチライン』もそうだし、ここしばらく数ページずつ読んでいる『ウィトゲンシュタインの愛人』もまた然り。
もちろん、いまがいろいろを理解できるレベルに達したのだと考えてはいない。ただ、それを愉しむ域にまで達する速度は実用に耐え得る程度になったと思うし、余計な摩擦も減っているはずだ……。

……なぜか、いまは振り返る季節なのだ。いろいろをやりなおしている。やりなおしをやりなおしている。
ただ、それは本来、この社会において、この年齢の一般的な大人がやって良いことではないようで、弊害は金銭的問題として山積している。解決する気のないその問題に耐久するための精神を構築するのはいまもなお慣れないし辛い作業だが、そのための構造そのものはたいへん強固だと自負しており、たいていの真っ当な意見ではびくともしない。
むしろ最近は、びくともしないことの罪とそれによる罰についての考察に余計な時間を取られてしまうことが問題で、それでも堂々と街を歩ける身体を準備し調整し続けることで、社会を見ようとまでしている。欲張りなことである。
簡単に怒るし、簡単に謝るし、簡単には崩れない。そして、悪い。
だから罰も相当にきついが、そのことの真偽もまた疑い続けなくてはならず、そうなれば、なによりも重要なのは体力である。
体がまったくダメになってしまっていたこの半年はほんとうにいけなかった。ほんとうにいけなかったが、首の皮一枚つながったということにしている。
そういうところもまた悪いのだが、それを説明する嘘のない言葉はあらかじめ準備されている。
それは社会にとってなんの価値も認められない言葉かもしれないが、そんなことはどうだった良いのだと言えてしまうのだから少しは呆れもする(ほんとうはまったく呆れてなどいない)。

で、そんなことより——