2022年8月19日(金)

2010年代、陸上競技の5000mと10000mで無類の強さを誇ったモハメド・ファラーは、2017年の世界陸上ロンドン大会の後、マラソンへの転向を表明した。
当時、彼はその理由を家族と過ごす時間を増やすためなのだとインタビューで語り、側にいた自分の子を抱き寄せていたのを記憶している。

なぜかそのことが妙に気になっていた。
彼は当時30代半ばで、そのあたりの年齢で引退する陸上選手は多い。単純に、家族のためになぜそこまでするのか不思議だった。

先月、イギリスのドキュメンタリー番組で、ファラーが自身の過去を赤裸々に語ったというニュースを目にした(「自分はモー・ファラーとして知られているが……」 人身売買されていた英陸上スター – BBCニュース)。
ドキュメンタリー番組は見ていないが、記事からその内容を知り、なんだか納得いった気がした。つまり、なぜファラーは家族に固執するのか、という疑問に対する回答を得たように感じたのだ。
ただ、そのことをもうちょっと真剣に考えてみようと思ったのは、わかった気がしたと同時に、ぜんぜんわからない気持ちもそこにはあったからだ。だって、幼少期にともに過ごせなかった家族と、いまそこにある家族はまったくの別人である。

さて、このことを真剣に考えるのはなかなかたいへんなことだ。なにしろ、「家族」とはなにか、について考えなければならないのだから。しかも考える方法はいくつもある。まずは、遺伝子を代表とする科学的な切り口。そして宗教的な切り口。
前回、8月6日付の日記で、リチャード・ドーキンス『神のいない世界の歩き方: 「科学的思考」入門』(訳:大田直子)を購入したと書いた。代表作『利己的な遺伝子』ですべての生物は遺伝子を運ぶための機械だと言い切る彼にとって、その真理の普及を阻害するいちばん厄介な存在は神——、正確には、神を掲げその影で創作する人間である。なので、上記のふたつの切り口——科学的/宗教的——は対立するほかない。
——と、こんなところから出発していては、目的地にたどり着けそうにないので今回は「認知」の側面から考えていくことにした。

まず、名前がない。なににも名前などない。ひとつひとつ約定を結んでいかなければならない。生まれたわたしたちは、筒井康隆『虚人たち』のようにはじめなければならない。たいていの場合、不満も苦しみも悩みも失敗も、すべて親の管理下において認知されていく。それがそれだと理解する時、そこには家族がある。罪も、未熟も、諦めも、克服も。
すべてをすべてのままに認知できないわたしたちは、名前を得てノイズを排除し、抽象化を繰り返す。不満も苦しみも悩みも失敗も罪も未熟も諦めも克服も、なんでも最初は鮮烈で、もっとも強く残るそれらをわたしたちは子供の状態で引き受ける。ところがそれを抱えたままではどうも苦しい。そこで——。
——と、これはこれで、やはり目的地がとおい……。哲学。どうしよう……。

……いや、Netflixで夢中で見ていたドラマ『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』のこととか、近所の脚に紐が絡まったハトのこととか、水木しげるの描くビンタのこととか(ビビビビビビン)、書きたいことは山ほどあって、だからひとつひとつはささっと片付けてしまいたいのである。
でもまあ、そうした考えは完全に間違いだということだろう。
ただ、もっと言えば公共料金を払うべきだし、そのために金を稼ぐべきだが、それらをひとつひとつやっていかないと「家族」についての続きを考えられないのだとしたら、それはやはりどこかおかしい。……おかしいのか? おかしいだろ! え? おかしくないのか。待てよ、そもそも誰が考えちゃいけないと言った? 並行してやっていくんだよ。みんなそうしてる。みんなそうしてるんだよ、わかる? わからない! そんなの嘘だね。嘘つきどもめ! どうやったらそんなことができるんだ。不可能だね。騙されないぞ。去れ! いい歳して何言ってるんだ、同年のファラーはやってるよ。冒頭で言ってた陸上競技のスーパースター、モハメド・ファラーはやってるよ、たぶん。わからないだろ、そんなの……、ファラーはすごいひとだけど、いまは関係ないだろ。関係あるよ、ファラーの話から始まったんじゃなかったか? そうだけど……。過酷、残酷な運命の中、彼は走って走って、そしてたどり着いた、そう思わないのか?
……そうかもしれないが、いまはおれの話だ。日記なんだよ、これは。もっと考えなくちゃいけないことはたくさんあるのに、邪魔ばかりして……。誰だ。放っておいてくれ。みんな他人じゃないか。他人他人。家族だって他人だ。誰もおれのことなんてわかりようがないんだから、余計なことは言わないで放っておいてくれって言ってるんだ!
子供じゃないんだから、バカなことばかり言ってるんじゃないよ、ちゃんとしなさいよ。
ちゃんとは無理! ちゃんとは無理! ちゃんとは無理ですわ!
あーあーあー、もう……。これは、ダメだ……。こうなっちゃったらもうダメだ……。
ちゃんとは無理! ちゃんとは無理! ちゃんとは無理! ちゃんとは無理! さっきから小蝿が……。小蝿……。そろそろ洗濯物を取り込まないと。日没がはやくなってきた。

今朝は少し涼しかった。ずっと頭が痛い。

2022年8月6日(土)

日記だ。世界陸上が先月24日に閉幕してから二週間余、競技者と競技場による洗練された映像に目が慣れて、あまり映像を観られなくなっていた。
仕方がないので本を読んでいた。『映像のポエジア』(著:アンドレイ・タルコフスキー/訳:鴻 英良)、千葉雅也『現代思想入門』、『愚か者同盟(著:ジョン・ケネディ・トゥール/訳:木原善彦)、佐川恭一『サークルクラッシャー麻紀』『受賞第一作』『シン・サークルクラッシャー麻紀』、綿矢りさ『生のみ生のままで』、山下澄人『しんせかい』、アーネスト・ヘミングウェイ『老人と海』、それからルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』(訳:岸本佐知子)を読み直す。
おれは、いわゆる「積読」という愉楽のことがいまひとつわからないので買ってきた端から読んでしまうのだけれども、さきほど、あたらしい読むための物がなくなってしまったので近所の本屋に。こういった事態を避けるために「積読」しておくのだろうか。リチャード・ドーキンスの『神のいない世界の歩き方: 「科学的思考」入門』(訳:大田直子)を買ってきたので、それが特に楽しみ。
それにしても、近所のショッピングモール内にある本屋は朝から混雑していた。そのあと立ち寄ったユニクロはそれほどでもなかった。別の店で見かけたHanesの3枚組Tシャツは昔のように値引きされておらず、安さもあって長い間、肌着として愛用してきたものの、もうこれでなくても良いのでは、と思う。
この間、映画はタルコフスキー『ノスタルジア』と溝口『雨月物語』の二作のみ。なぜこの二作を観たのかはわからない。
音楽はCass McCombsの何作かを繰り返しと、Sam Prekop and John McEntire『Sons Of』など。

他に、近所で見かける、脚に紐が絡み付いてしまったハトのことなども書き記しておきたのだが、今日はやめておく。