2021年8月4日(水)

iPhoneが傍に。MacBook Airのキーボードを打っている。大好きなコカ・コーラを飲みながら。Apple Musicで数多の素晴らしい音楽を聴きながら。
Amazonで買った割引されたサントリーの天然水とグリーンダカラが、YouTube、Netflix、Amazonプライム・ビデオを見ている時、あるいはPS4でゲームをしている時——どちらにしろここは外ではなく、外は夏で、熱中症と感染症と犯罪者と交通事故とその他不幸がレーザービームのように建物の外壁に反射し続けその熱で感情が焼け爛れれる季節——宅配便の従業員によって人力で四階の我が家にダンボールで届けられる。
やはりiPhoneが傍に。電話が鳴っても取らない。Twitterでは厄介な話。マジでクソだなとつぶやいたりツイートしたりしてからテレビでオリンピックの陸上競技の中継に夢中になってすべて忘れて寝る。思い出してから忘れて寝る。この音楽良いね。寝る。煙草、また値上がりするのか。

想像すればするほど自分は罪人で、だからいまも罰を受けている最中だ。常に加害の意識があるが、なにもできない。この無力感もまた罰であり、贖罪などどこにもない。謝る相手なんてどこにもいない。ただ苦しむ。それも、できる限り長く。そして罪人のまま死ぬのだ。
世界のすべての最低な出来事はおれの罪で、おれがこんな暮らしをしなければ、名古屋の醜悪で薄汚いクソ市長が他人の金メダルに齧りつくことも病床が不足することもどこかの誰かが不倫することもなかった——わけないだろう! たしかにそんなわけはない。しかし俺はそれでも間違いなく因子であり加害者だ。それはお前もだが、そのことは自分で折り合いをつけてくれ。前述のとおり、俺は自分のことすら手に負えない。仮にお前が潔白のつもりなら、そんなふうな顔で街を歩けば良い。俺はそのことをとやかくは言わない。

クソ暑いし体もダルいしつまんないことばかりだ。金もない。不愉快だね。誰でも良いからなんとかしろよ! どうせ自分のことで精一杯なんだろ? 誰もなんとかしないんだったら、俺もお前もこの最低な世界における罪で、いまの世界そのものが罰だ。どこかで可愛い赤ん坊や仔猫だってその罰に苦しんでるだろう。もう死ね! でも、死ぬまで誰にも謝ることはできないうえに、なぜかいまここにあるこの欲望は失われない。この眼が色を判別できることに驚きを隠せない。

2021年8月2日(月)

酷暑。東京五輪12日目とのこと。テレビで陸上競技をいくつか見たが、どれも基本的には日本人選手の出場があるから中継されており、おれが見たいものはあまり見せてもらえない。

さて、やはりずっと家にいるが、外ではいろいろなことが起きているらしい。たとえばおれの住む東京ではコロナウイルスのデルタ株が猛威をふるっており、救急搬送が困難な事例が頻出、極端なものでは、

男性(50代)はコロナ感染し呼吸困難の状態で、救急隊が搬送先を探しましたが、およそ100の医療施設が態勢の不備などを理由に受け入れを断ったということです。

【独自】都内約100病院が拒否 コロナ救急患者搬送に8時間

というような報道があった。
仮に明日ワクチンを接種できたとしても、効果が期待できるのは二回目の接種の二週間後という話だから、少なくともひと月はマスクや手洗いといったこれまでの自衛でのみ切り抜けるほかなく、やはりまだまだ家にいなければならないようだ。

藤本タツキ『ルックバック』が、読者からの指摘を受け、作中の描写が偏見や差別の助長にならないよう一部を修正、との報。
『ルックバック』は未読だったのだが、どうせ(先日の日記にも書いた)小山田圭吾が東京五輪の開会式の作曲担当を辞任したことを受け、『チェンソーマン』のMAPPAによるアニメ化と漫画の第二部を控えたタイミングでもあることから、余計な騒ぎを避けたというような内実なのだろう、と勘繰り、だとすればうんざりとするような話だと思いつつ、すでに前述の修正が行われた『ルックバック』、及び修正に至る経緯の関連情報、修正箇所の指摘などに目を通すと、どうやらそこまで単純な話のようでもなく、少し安堵する。単純な話ではない、と判断したのは、先ず『ルックバック』という作品の性質、それから藤本タツキという作家性、最後に指摘の内容からである。
二十年来の筒井康隆ファンとしてはこの件について当然「断筆宣言」を思い起こすのだが、『ルックバック』が「少年ジャンプ+」というウェブ媒体のメディアで発表されたこと、発表された日付が「京都アニメーション放火殺人事件」が起きた日付の翌日であったことなどから、(『朝のガスパール』を想起し)当初から多くのフィードバックとその後のアップデートを意識して発表、制作されていたようにも感じられ、だとすれば、これはひとつの「いまの戦略的抵抗」なのではないか? と感じさせる気配もあり、ゆえに話は単純ではなく、もう少し考えたいと思わせる希望も儚くはない。たぶん……。

あとは……、

なんか、マクスウェルの悪魔において、情報の記憶ではなく忘却の際にこそエントロピーは変動する、という話を連想したけど、たぶん関係ない。でも、リツイートにはどうも、忘却のための行為というか、他人が勝手にお焚き上げしてる感じがある。エントロピーが拡散するには、やはり観測の忘却が、的な……

こんなことをツイートしたが、過去にも似たようなことを書いた気がするのは、取り上げた話題が「リツイート」と、なにをいまさらな内容だからだ。いつ始まったのかも知らず、一度も使ったことも見たこともなかった「フリート」という機能がなくなるタイミングで「リツイート」について何を言おうというのか、という感じだが、内容は先に言ったようにおそらく過去と同じ、つまり、やっぱりまだ意味がよくわからない。リツイートとはどういう行為なのか。

先の引用に続けて、

(梱包用の)プチプチを脳細胞に見立てて、それをプチプチするという小さな快感にとらわれている人のイラストを載せたツイートがたくさんリツイートされ、しかしリツイートした当人は皆そのイラストのことを覚えておらず、ただTL(タイムライン)の異物としてそれを目にした人だけが記憶している。なんだこれ?って。

などとも言ってみたが、こんな例えが包括的でないことは重々承知だ。たぶん、ざっくばらんに言えば、お前の話が聞きたいのに、なんで人から聞いた話ばっかりするんだよ! というか、人から聞いた話をしてすらないか。その様子撮影したから見といて、って言われた感じ! という不満であり、もっといえば嫌悪なのだろう。
……まあ、もうおれのTwitterの使い方が時代遅れなのかもしれない。なにしろ、まだ「リツイート」とはいかなる行為なのか理解できていないのだから……。誰か教えてくれ。あの行為の背後にいかなる心理が働いているのかを……。

2021年7月26日(月)

颱風が近づいているらしい。

24日(土)午前、持病のパニック障害のためにチャリで通院。もらった処方箋を持って薬局に行き待っていると、かわいらしいお声をしたいつもの薬剤師さんが困り顔でちょっとご相談が、と話しかけてくる。聞くと、処方薬のうちのひとつをジェネリック医薬品に代えてくれないかとのことだった。
パニック障害に関係する薬は二種類処方されていて、もう片方はすでにジェネリック医薬品にしているのだが、ひとつを先発薬のままにしているのには理由があった。
冒頭で持病と記載したとおり、もう人生の半分近くをこの病と付き合っているが、先発薬のままにしているのはいわゆる頓服薬で、外出時に服用することが多い。20代の頃などは、なんとなく友人の前などで薬を呑むと気を使わせるように思い、頭痛持ちでもあったので市販の頭痛薬や、朝に一度呑むだけでよいもうひとつの処方薬などを一緒に入れた小袋から頓服薬を手さぐりで探し、飲み物のついでにさっと服用していたのだが、その際、役立ったのは、件の先発薬だけが他と違い楕円形であり、指先で判別できたことである。ところが、ジェネリック医薬品は正円なのだ。聞けば値段も大差なく、では、と数年前に先発薬のままにしてもらった際は特になにも言われなかったのだが、この日のかわいらしいお声のやさしい薬剤師さんは小声で、「国からの圧力がすごくて……」とおっしゃった。どうやら、とにかくジェネリックにしろと言われているらしい。おれが先発薬を使っていた理由は上記の通りなのだが、もう持病のひとつやふたつあってもおかしくない歳だし、大体、ほとんど外出しないし、幸いその頓服薬を呑む回数も減っているし、なによりかわいらしいお声のやさしい薬剤師さんが困ってらっしゃるので、では、とジェネリックに代えることを承諾する。
チャリで帰宅し、「国からの圧力がすごくて……、だと? なにか裏があるに違いない……」、などと思いながらネットで調べると、とにかく医療費が嵩んできついからそうしているとのことだった。まあ、そうか。そうだよな。わかるわかる。

ちなみにおれは普段、チャリとは言わず自転車と呼称している。
これは、なんとなくチャリって言いたいのと、かわいらしいお声のやさしい薬剤師さん、と書きたいがために書かれた日記だ。
昔はよくこういうことをしていたが、しばらくしてから決まってあんなくだらない日記を書くんじゃなかったと苦しめられるのが辛くやめた行為だった。だけど、なんとなくやめたのをさっきやめた。
かわいらしいお声のやさしい薬剤師さんは、毎朝チャリで出勤しているのだろうか。

音楽は、期待していたNicolas JaarとDavid HarringtonによるDARKSIDEの新譜『Spiral』と、Clairoの新譜『Sling』がいまひとつだったのでMitskiを聴いている。『Puberty 2』、『Be the Cowboy』。この2枚をいつも一緒に聴いていたのは飼い猫だったもきちだから、彼のことを思い出す。
ちなみにおれの勝手な推測では、もきちが特に好きだった曲はMitski『Your Best American Girl』と七尾旅人『DAVID BOWIE ON THE MOON』の二曲。どう? あってる?

2021年7月20日(火)

さて、この日記をいつ誰が読むのかはわからず、もしかすればその時にはすっかり忘れ去られている話題かもしれないが、Corneliusこと小山田圭吾が、過去に行った問題とそれに関する雑誌のインタビュー記事に起因した騒ぎで東京五輪の開会式の作曲担当を辞任した。それにまつわる話題がここ数日、大変にぎやかだったし、いまもなおそうだ。
このことについておれが想起したのは、永山則夫と、死刑(私刑に非ず)についてだった。

件の、過去に行った問題とそれに関する雑誌のインタビュー記事については、おれはずいぶん前に知っていた。学生だった頃には知っていたと思うから、20年近く以前に耳にしていたことになる。
当時、じぶんがそれを知り何を思ったかははっきりと思い出せないが、それほど高い関心を持たなかったように思う。嫌悪感と冷めた気持ちが混ざったような感情でそのことに接していたように思う。いまのようにSNSなどで知ったわけではなく、ひとりひっそりと昏い何かに触れたせいでそうなったのかもしれない。だからだろうか、何にしろ、発表された/される作品、つまり彼の音楽を聴いてなにかを思うほかないと考えていた。

永山則夫については、知らないひともいるだろうから調べてもらいたいが、1968年に拳銃で連続殺人を行い、後に死刑となった犯罪者である。
なぜ彼が想起されたのかだが、彼は獄中で小説を執筆しそれが評価を受け、1990年、日本文藝家協会への入会を申請する運びとなる。ところがこれを協会が拒んだことがきっかけで、協会を脱退する作家が複数あらわれる騒動となった。要するに、殺人犯は協会が守るべき文藝家であるか否かが争点となったのだ。
この複雑な問題をさらに複雑にしてしまうのが死刑制度である。死刑囚は自死できない。彼らにとっては、他者から殺されることがその刑罰であるからだ。永山則夫は協会への入会を希望した時点では、当然まだその刑罰を受けていなかった。罪はまだ罰されておらず、彼は法のもと許されてはいなかった。
果たして、そのことと彼の作品にいかなる因果を想うか——、30年前、それは世に問われていたわけである。

このことと死刑制度の是非について仔細に述べようとするとあまりに長くなるので、このあたりで次に進むが、では、Corneliusこと小山田圭吾が過去に行った行動はいつ許されるのか。
まず、彼が過去に行った行動は、現在の彼に犯罪者の烙印を押すことはできない。つまり、社会的にそもそも罪を問われておらず、ゆえに処される刑罰もない。彼が過去に、あるいはいまできるのは、過去の自身の過ちを認め反省や後悔をすることだけだ。
そしてその内容は、他者が評価できるものではない。彼の過去の行動に嫌悪感を抱き憎むのは自由だが、彼を許せるものは誰もいないのだ。
このことが、今回のことがおれに死刑という刑罰を想起させる理由となった。

彼はすでに、憎悪だけを一方的に受け、許される立場にはない。これは死刑と似ている。死刑囚は、生を奪われ、この世から消えてしまうことでしか刑罰を受けることができず、最期まで許される立場にない。法的に、許されるということが許されない。ゆえに殺される。
いま、小山田圭吾が過去に行った行動について行われていることは、この、許されるということが許されない、という性質に酷似しているように感じられる。

法に問われていない罪は己によって罰するほかない。そのことは多くに人の知るところだと思う。最期まで、自身によって過去の罪を許せず、罰し切れない、許されない人生を送る人も少なからずいるだろう。それは、やはり他者が評価できるものではない罰だ。憎むのは自由だが、断罪はわれわれの範疇にはない。

名もなきひとびとの声が、許されるということが許されない世の中を作る時代になってしまった。それは死刑を除くすべての刑罰よりも残酷であるにも関わらず、大きな力になってしまった。そして、その恐ろしい事実が、2021年に開催される東京五輪というくだらない催しによって歴史に刻まれる。私たちの手で。くだらない。本当にくだらない。小山田圭吾が今後、どんな音楽を作るのか、あるいは作らないのか、彼が過去に行った行動を彼が「本当に」反省しているか否か、それらは我々に問えることではない。彼が過去に行った問題とそれに関する雑誌のインタビュー記事がただただ不快だった——そうだったしても、それとこれとは話が別だ。

2021年に開催される東京五輪という素晴らしい催しに、彼のような過去を持つものの音楽はふさわしくない——、そんな素朴な意見ならば理解できる。ただ、この場合、そもそも彼の過去を断じる必要はなく、やはりいまの世の声は、ただただ力なく闇に吸い込まれているだけと言うほかない。

軟弱で醜悪な感情が徒党を組んで歩き出す。でも三歩歩けば忘れるから、もうこの日記を読んでもなんのことかわからないだろう——、冷めた想いで眺めているのならば、おれもまた徒党のひとりと看做すべきか、だとしたら——。そんなふうにいま、ほんとうは触れたくもない話題で日記を書いている。書いていた。今ここから、未来の人へ。

2021年7月19日(月)

前回の日記で「今夜はコインランドリーの乾燥機に頼ろうか」と書いていたが、結局その数日後、雨の中、山盛りの衣類を抱え、最近近くにできたコインランドリーに。

気付けば梅雨が明け、それで、夏っぽさを感じるのが精一杯という感じの日常。なんとなく本棚から『日常と不在を見つめて ドキュメンタリー映画作家 佐藤真の哲学』を手に取り、繰り返し読む。それから、未読の『日常という名の鏡』を発注し、届くまでの間に筒井康隆『活劇映画と家族』を読む。

16日(金)に、Twitterにこんなことを書いた。

君は、自分がどうしてそんなに傷ついてしまったのかがわからない。ところが、その理由のすべてを描いている芸術がこの世にはすでにある。君はそう言われ、なぜそんなことがわかるのかと訝るかもしれない。でも、それがただの嘘だとは思わない。では、それは嘘ではなく何なのか。君は考え始める。

考え始めた時、束の間の自由がはじめて訪れる。そうやって呼吸を繰り返し、それが日常になる。酸欠あるいは窒息の日々は、日常というよりもただ流れゆく時間だ。流れにふらつき立脚できない声が用もないのに窓を叩いている。

夏っぽさを感じるのが精一杯だけど、それがなにか知っていたから、だからこれが夏っぽさ。

音楽はClairoの新譜『Sling』。

2021年7月5日(月)

4日、日曜日。雨。ただただ義務感に促され、東京都議会議員選挙の投票に。投票のためだけに家を出るのも億劫だったためカメラを片手に出掛けたが、一度もシャッターを切らずに帰宅する。

ところで、最近は蛙亭にはまっている。しばらく前にテレビで「タイムマシン」というコントを偶然目にし、少し前に「電車」を見たことでいよいよ興味が高まり、いまではPodcast番組「蛙亭のオールナイトニッポンi」、YouTubeチャンネル「蛙亭のケロケロッケンロール」、stand.fm「芸人Boom!Boom! 蛙亭の語リング」のこれまでのものをすべて視聴してしまい、毎週の更新を心待ちにしている日々である。

いままで芸人にはまる、ということがない人生を送ってきたので、ついなぜはまったのかを考えるのだけれども、そうすると10代の頃の記憶を遡ることになり、生まれである大阪府寝屋川市の当時の雰囲気を想起し、それでまあ……、そこからのあれこれは割愛するが、簡単に言えば「笑い」という文化に対する愛憎入り混じった感情があり、つまりは断罪したい思いと共犯である後ろめたさの板挟みに遭うのだった。
あれこれを省略しながら続けるのが申し訳ないが、この問題は、よく「人を傷つけない笑い」と評されるぺこぱによっては全く解決されない複雑な問題で、ところが蛙亭はその問題を解決するわけではなく、(なぜか)自然と回避しているように感じられるのだ。
まあ、とはいえその不思議も「はまっている」おれにとってはひとつの魔法でしかないのかもしれず、だから謎は謎のままにしておきたいし、そうするべきだろう。

さて、洗濯物が山積みである。今夜はコインランドリーの乾燥機に頼ろうか。雨。夜が短いなあ。暦からして当然だけど、それにしても夜が短いよなあ……。

2021年7月3日(土)

今週初め、デザインの仕事のためにいろいろな絵画を調べていると、ある古い絵本の挿絵に惹かれた。Kate Greenawayというイギリスの絵本作家が「ハーメルンの笛吹き男」の絵本のために描いたものだった。
その童話の名を耳にしたことはあったが内容はなにも知らなかったため調べると、どうやら奥深いものがそこにはあるようだったため、翌日、阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界』という本を購入し読む。とてもおもしろい本で、ハーメルンの笛吹き男とは誰か——という問いを通して「伝説」の成り立ちについて考察しており、では、現代におけるハーメルンの笛吹き男、あるいは行方不明となった130人の子供とは何か/誰か、とつい考えさせられる。ところが、

知識人がいろいろ努力を重ねて民衆伝説をとらえようとする場合、そこにはどうしてもその知識人がおかれた社会的地位が影を投げる。歴史的分析を史実の探索という方向で精緻に行えば行うほど、伝説はその固有の生命を失う結果になる。伝説を民衆精神の発露として讃えれば政治的に利用されてしまい、課題意識や使命感に燃えて伝説研究を行なえば民衆教化の道具となり、はてはピエロとなる。民衆伝説の研究にははじめからこのような難問がつきまとっているのである。

阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界』、筑摩書房、1988年、298ページ – 299ページ

とあるように、伝説における「固有の生命」とはまことに扱いが難しい。「生命」なのだから、化石にしたり、冷凍保存したり、あるいは牢に閉じ込めてはならず、ひいては干渉を最低限にしたいものの、だからといって、その生命をただ野垂れ死させては元も子もない。

本来、すべてのものとの向き合い方は、そうした難問であるはずだ。ただ、それを実践することは不可能であり、だから対象を絞る必要がある。つまり知性が必要なのだけれども、現代において知性とはただの厄介ごとなのだろうか。ほとんど忌み嫌われているようにすら感じられるそれは、いったい何の/誰のスケープゴートとなったのか。

2021年6月23日(水)

雑誌「スペクテイター 48号 特集:パソコンとヒッピー」を読む。
パソコンの文化史をヒッピーを軸に捉えた特集で、テキストの大量から、漫画にしなくて良かっただろう、とは思うものの労作だった。
2021年にヒッピーを軸にパソコンを語るということは、つまり情緒の科学への敗北を意味しているが、いちおう、最後にはアーミッシュという宗教集団を召喚することによって問題提起をしているところが切ない。

コロナウイルス、コロナワクチン、東京五輪、政治、経済といった混乱材料がインターネットを縦断し、個々人の情緒でべたついた言葉の群れが巨大な蜘蛛の巣となっている様を、しかし観察するものはない。つまりは誰ひとりとして現状を把握することは不可能であり、情緒はただ科学に促され徘徊するのみということだ。

昨年12月31日の日記に書いたことを引用する。

2020年、コロナの年、ぬるい個人主義とそのパノプティコン効果でこの国の人々はみなよくわからないままマスクを着用し外出を控え、結果、被害は欧米と比して小さい。だが、それは簡単に裏返るだろう。いまのここには重しがない。予兆は十二分。大晦日に言いたくないことだが、来年が怖い。

まだ東京五輪を控えた上半期だというのに、朴訥とした予見は十二分に当たってしまった。みなが予見していたことだ。知っていたこととも言えるだろう。

昨年12月25日の日記で引用した文章を再度引用する。

 <……>矛盾がないということを説得するためには、感情が納得してくれなければだめなんで、知性が説得しても無力なんです。ところがいまの数学でできることは知性を説得することだけなんです。<……>人というものはまったくわからぬ存在だと思いますが、ともかく知性や意志は、感情を説得する力がない。ところが、人間というものは感情が納得しなければ、ほんとうには納得しないという存在らしいのです。
小林 近頃の数学はそこまできたのですか。
 ええ。ここでほんとうに腕を組んで、数学とは何か、そしていかにあるべきか、つまり数学の意義、あるいは数学を研究することの意味について、もう一度考えなおさなければならぬわけです。

小林秀雄・岡潔『人間の建設』、新潮社、2010年、40ページ

とはいえ、感情は自家中毒を起こし、そこから生まれる情緒が科学によって徘徊させられるいま、いったい何ができるというのだろう。圧倒的な敗北感がここにある。
あそこの誰かは仮想敵と戦い敗北から目をそらしているうちに、いつのまにか焼け野原に立っている。呆然と立ち尽くし、少しのあいだ無邪気にそこを駆けまわってみれば、あとは野垂れ死ぬのを待つだけだ。結局、雨が降る。

以下は、昨日のツイート。

自分のMacでは、Apple Musicがなぜか英語表記になってしまうトラブルがずっと続いていて、まあいいや…と使っていたが、井上陽水の『結局 雨が降る』が、『kekkyoku ame ga agaru』になっていたのは流石に看過できないし、理由がよくわからない。結局、降るんだよ! 雨。

2021年6月18日(金)

前回の日記との狭間の記録として、池辺葵『ブランチライン』2巻、うめざわしゅん『ダーウィン事変』1巻、2巻、『売野機子短篇劇場』などを読む。
テレビドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』『あのときキスしておけば』が最終回を迎える。次のクールは目ぼしいドラマが見当たらないのが寂しい。
衝動的に、10代の頃から買い替えながら使っていた「メディカル枕」に見切りを付け、マニフレックスの「フラットピッコロ」という枕に替えたところ首の調子が良い。

これはただの愚痴だが、今日Twitterにこんなことを書いた。

たとえばある「言葉」が鼻につきはじめると(仕方ない、たくさん目にしちゃう時代だから)、その「言葉」を使う目的や意図を差し置いて、「言葉」そのものに嫌悪感を抱く、ということを人はやってしまいがちだと思う。うまく分けられない。脳の仕組みなのか。いろんなくだらない問題がそれにて起こる。

わかりきったことであらためて書くことでもないのだけれども、それにしてもどうにかならないものか、とついツイート。それとこれとは別のことだという指摘はその都度理解された雰囲気だけを残し永遠に繰り返される。先人たちもまた、老いるにつれ自然と諦めていったのだろう。

まあ、そんなことはどうだっていい。でも、そんなどうだっていいことが雪崩のようで息も絶え絶え。相も変わらず合駒の日々。

2021年6月4日(金)

5月25日(火)、相変わらず肩こりがひどい。ひさしぶりに「せんねん灸」を据えようとそれを肩に置いたのだが、コロナ禍以降、理髪していない襟足が燃えてしまった。
その夜、友人たちと「リモート飲み」をしようと約束していたのだったが、当日、約束の21時からテレビで『大豆田とわ子と三人の元夫』を観なくてはいけないことを思い出し、日中にその断りを入れ、ドラマが終わった22時に急いで合流。参加者のそれぞれの上半身は画面の区切られた箇所に表示されていたが、そこに映る自分の髪は長く、無精髭で、世捨て人じみていた。実際、友人たちからもそういうようなことを言いたいのだろう曖昧な言葉が聞かれた。
翌日、三年ほど通っている駅前の理髪店に。800円から850円に値上げしていた。先客がふたり施術中で、さらにふたり待っていたが、ふたりの理容師たちの早業によりほとんど待たずに済んだ。安いのはもちろん、無駄が無くとにかく施術が速いのが素晴らしい。初めに一言ふたこと理髪の内容について話す以外はなにも話さない。50円の値上げもこの時世仕方のないことだ。今回、おそらく一年半ほど髪を切っていなかったが、理髪店が苦手なおれでもコロナ禍でなければ、その間に二三度は出向いていたはずである。
襟足を可能な限り短くしてくれとだけ頼む。あとは特に期待も信頼もしていない理容師にすべてを託したが、襟足以外はほどほどに長いままにされ、それなりに小綺麗に落ち着いたので嬉しかった。
すべてを終え、俺がメガネとマスクを装着すると、並行し後片付けをしていた理容師がとつぜん「見てください」と言う。「ほら、こんなに切りましたよ」と切られた一年半ぶんの髪を箒で集めたものがそこにあった。「わあ」と応えたのはそれが求められた反応だと思ったからで、とくに感嘆はなく、なぜそれを見せてくるのかがわからなかった。そもそも、それが多いのか少ないのかわからない。いや、おそらく多かったのだろう。なにしろそこは、短髪の年寄りばかりが来る店である。だからって、だからなんだ。「だからなんだ」とは言わず、850円を支払い「どうも」と言って店を出た。自販機でコカコーラを買って帰った。
——というような日記を書こうと思ってから十日も経ってしまった。それが今日だ。雨風の強い日だった。
リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』はまだ半分ほどまでしか読んでおらず、先日本屋で見つけ購入した朝日文庫の『岡潔対談集』などに寄り道していた。今日、ふたたび『利己的な遺伝子』に戻ったが、その影響で七年前に読んだシーナ・アイエンガー『選択の科学』を再読したくなり、だから『利己的な遺伝子』は閉じたが、『選択の科学』の再読は後にして日記を書くことにした。日記は間も無く書き終える予定なので、そのあとは寝ようと思う。