2021年7月19日(月)

前回の日記で「今夜はコインランドリーの乾燥機に頼ろうか」と書いていたが、結局その数日後、雨の中、山盛りの衣類を抱え、最近近くにできたコインランドリーに。

気付けば梅雨が明け、それで、夏っぽさを感じるのが精一杯という感じの日常。なんとなく本棚から『日常と不在を見つめて ドキュメンタリー映画作家 佐藤真の哲学』を手に取り、繰り返し読む。それから、未読の『日常という名の鏡』を発注し、届くまでの間に筒井康隆『活劇映画と家族』を読む。

16日(金)に、Twitterにこんなことを書いた。

君は、自分がどうしてそんなに傷ついてしまったのかがわからない。ところが、その理由のすべてを描いている芸術がこの世にはすでにある。君はそう言われ、なぜそんなことがわかるのかと訝るかもしれない。でも、それがただの嘘だとは思わない。では、それは嘘ではなく何なのか。君は考え始める。

考え始めた時、束の間の自由がはじめて訪れる。そうやって呼吸を繰り返し、それが日常になる。酸欠あるいは窒息の日々は、日常というよりもただ流れゆく時間だ。流れにふらつき立脚できない声が用もないのに窓を叩いている。

夏っぽさを感じるのが精一杯だけど、それがなにか知っていたから、だからこれが夏っぽさ。

音楽はClairoの新譜『Sling』。

2021年7月5日(月)

4日、日曜日。雨。ただただ義務感に促され、東京都議会議員選挙の投票に。投票のためだけに家を出るのも億劫だったためカメラを片手に出掛けたが、一度もシャッターを切らずに帰宅する。

ところで、最近は蛙亭にはまっている。しばらく前にテレビで「タイムマシン」というコントを偶然目にし、少し前に「電車」を見たことでいよいよ興味が高まり、いまではPodcast番組「蛙亭のオールナイトニッポンi」、YouTubeチャンネル「蛙亭のケロケロッケンロール」、stand.fm「芸人Boom!Boom! 蛙亭の語リング」のこれまでのものをすべて視聴してしまい、毎週の更新を心待ちにしている日々である。

いままで芸人にはまる、ということがない人生を送ってきたので、ついなぜはまったのかを考えるのだけれども、そうすると10代の頃の記憶を遡ることになり、生まれである大阪府寝屋川市の当時の雰囲気を想起し、それでまあ……、そこからのあれこれは割愛するが、簡単に言えば「笑い」という文化に対する愛憎入り混じった感情があり、つまりは断罪したい思いと共犯である後ろめたさの板挟みに遭うのだった。
あれこれを省略しながら続けるのが申し訳ないが、この問題は、よく「人を傷つけない笑い」と評されるぺこぱによっては全く解決されない複雑な問題で、ところが蛙亭はその問題を解決するわけではなく、(なぜか)自然と回避しているように感じられるのだ。
まあ、とはいえその不思議も「はまっている」おれにとってはひとつの魔法でしかないのかもしれず、だから謎は謎のままにしておきたいし、そうするべきだろう。

さて、洗濯物が山積みである。今夜はコインランドリーの乾燥機に頼ろうか。雨。夜が短いなあ。暦からして当然だけど、それにしても夜が短いよなあ……。

2021年7月3日(土)

今週初め、デザインの仕事のためにいろいろな絵画を調べていると、ある古い絵本の挿絵に惹かれた。Kate Greenawayというイギリスの絵本作家が「ハーメルンの笛吹き男」の絵本のために描いたものだった。
その童話の名を耳にしたことはあったが内容はなにも知らなかったため調べると、どうやら奥深いものがそこにはあるようだったため、翌日、阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界』という本を購入し読む。とてもおもしろい本で、ハーメルンの笛吹き男とは誰か——という問いを通して「伝説」の成り立ちについて考察しており、では、現代におけるハーメルンの笛吹き男、あるいは行方不明となった130人の子供とは何か/誰か、とつい考えさせられる。ところが、

知識人がいろいろ努力を重ねて民衆伝説をとらえようとする場合、そこにはどうしてもその知識人がおかれた社会的地位が影を投げる。歴史的分析を史実の探索という方向で精緻に行えば行うほど、伝説はその固有の生命を失う結果になる。伝説を民衆精神の発露として讃えれば政治的に利用されてしまい、課題意識や使命感に燃えて伝説研究を行なえば民衆教化の道具となり、はてはピエロとなる。民衆伝説の研究にははじめからこのような難問がつきまとっているのである。

阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界』、筑摩書房、1988年、298ページ – 299ページ

とあるように、伝説における「固有の生命」とはまことに扱いが難しい。「生命」なのだから、化石にしたり、冷凍保存したり、あるいは牢に閉じ込めてはならず、ひいては干渉を最低限にしたいものの、だからといって、その生命をただ野垂れ死させては元も子もない。

本来、すべてのものとの向き合い方は、そうした難問であるはずだ。ただ、それを実践することは不可能であり、だから対象を絞る必要がある。つまり知性が必要なのだけれども、現代において知性とはただの厄介ごとなのだろうか。ほとんど忌み嫌われているようにすら感じられるそれは、いったい何の/誰のスケープゴートとなったのか。

2021年6月23日(水)

雑誌「スペクテイター 48号 特集:パソコンとヒッピー」を読む。
パソコンの文化史をヒッピーを軸に捉えた特集で、テキストの大量から、漫画にしなくて良かっただろう、とは思うものの労作だった。
2021年にヒッピーを軸にパソコンを語るということは、つまり情緒の科学への敗北を意味しているが、いちおう、最後にはアーミッシュという宗教集団を召喚することによって問題提起をしているところが切ない。

コロナウイルス、コロナワクチン、東京五輪、政治、経済といった混乱材料がインターネットを縦断し、個々人の情緒でべたついた言葉の群れが巨大な蜘蛛の巣となっている様を、しかし観察するものはない。つまりは誰ひとりとして現状を把握することは不可能であり、情緒はただ科学に促され徘徊するのみということだ。

昨年12月31日の日記に書いたことを引用する。

2020年、コロナの年、ぬるい個人主義とそのパノプティコン効果でこの国の人々はみなよくわからないままマスクを着用し外出を控え、結果、被害は欧米と比して小さい。だが、それは簡単に裏返るだろう。いまのここには重しがない。予兆は十二分。大晦日に言いたくないことだが、来年が怖い。

まだ東京五輪を控えた上半期だというのに、朴訥とした予見は十二分に当たってしまった。みなが予見していたことだ。知っていたこととも言えるだろう。

昨年12月25日の日記で引用した文章を再度引用する。

 <……>矛盾がないということを説得するためには、感情が納得してくれなければだめなんで、知性が説得しても無力なんです。ところがいまの数学でできることは知性を説得することだけなんです。<……>人というものはまったくわからぬ存在だと思いますが、ともかく知性や意志は、感情を説得する力がない。ところが、人間というものは感情が納得しなければ、ほんとうには納得しないという存在らしいのです。
小林 近頃の数学はそこまできたのですか。
 ええ。ここでほんとうに腕を組んで、数学とは何か、そしていかにあるべきか、つまり数学の意義、あるいは数学を研究することの意味について、もう一度考えなおさなければならぬわけです。

小林秀雄・岡潔『人間の建設』、新潮社、2010年、40ページ

とはいえ、感情は自家中毒を起こし、そこから生まれる情緒が科学によって徘徊させられるいま、いったい何ができるというのだろう。圧倒的な敗北感がここにある。
あそこの誰かは仮想敵と戦い敗北から目をそらしているうちに、いつのまにか焼け野原に立っている。呆然と立ち尽くし、少しのあいだ無邪気にそこを駆けまわってみれば、あとは野垂れ死ぬのを待つだけだ。結局、雨が降る。

以下は、昨日のツイート。

自分のMacでは、Apple Musicがなぜか英語表記になってしまうトラブルがずっと続いていて、まあいいや…と使っていたが、井上陽水の『結局 雨が降る』が、『kekkyoku ame ga agaru』になっていたのは流石に看過できないし、理由がよくわからない。結局、降るんだよ! 雨。

2021年6月18日(金)

前回の日記との狭間の記録として、池辺葵『ブランチライン』2巻、うめざわしゅん『ダーウィン事変』1巻、2巻、『売野機子短篇劇場』などを読む。
テレビドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』『あのときキスしておけば』が最終回を迎える。次のクールは目ぼしいドラマが見当たらないのが寂しい。
衝動的に、10代の頃から買い替えながら使っていた「メディカル枕」に見切りを付け、マニフレックスの「フラットピッコロ」という枕に替えたところ首の調子が良い。

これはただの愚痴だが、今日Twitterにこんなことを書いた。

たとえばある「言葉」が鼻につきはじめると(仕方ない、たくさん目にしちゃう時代だから)、その「言葉」を使う目的や意図を差し置いて、「言葉」そのものに嫌悪感を抱く、ということを人はやってしまいがちだと思う。うまく分けられない。脳の仕組みなのか。いろんなくだらない問題がそれにて起こる。

わかりきったことであらためて書くことでもないのだけれども、それにしてもどうにかならないものか、とついツイート。それとこれとは別のことだという指摘はその都度理解された雰囲気だけを残し永遠に繰り返される。先人たちもまた、老いるにつれ自然と諦めていったのだろう。

まあ、そんなことはどうだっていい。でも、そんなどうだっていいことが雪崩のようで息も絶え絶え。相も変わらず合駒の日々。